【1000文字小説】錆びたトランクと最後の夏
蝉の声が焼けつくように響く午後だった。祖父の家の離れにある物置小屋は、湿った木と油の匂いがこもり、時間がそこだけ濃く沈殿しているようだった。遺品整理の手伝いに来た僕は、積まれた段ボールの奥から、錆びた金属のトランクを見つけた。
留め金を外すと、軋んだ音が狭い小屋に跳ね返った。中には色褪せた写真、封書、そして白砂の詰まった小さな硝子瓶があった。
手紙の宛名は「ヒロシ様」
差出人は「ユリ」
日付は昭和十九年だった。封を切ると、紙の繊維がわずかに崩れた。
「最近は夜になると、遠くで地鳴りのような音がします。海の色も、夏なのに鈍く濁っています。皆、来月には町の男たちが呼ばれるだろうと囁いています」
抑えた文字の奥に、日常の輪郭が歪み始める気配が潜んでいた。
続く写真には、若い祖父とユリが並んで写っていた。海辺の光はやわらかいのに、どこか影が長い。写真の裏には「昭和十九年七月二十日 約束の場所にて」とだけある。
その言葉が、どうしても頭から離れなかった。
それが本当に“約束の場所”かどうかは分からなかった。ただ、祖父の古い地図を広げると、何度も折り返された海岸線が一箇所あった。赤鉛筆の線は消えかけ、印とも傷ともつかない跡が残っているだけだった。理由を後から作るような気持ちで、翌日、僕はそこへ車を走らせた。
たどり着いた入り江は、観光地の喧騒から外れ、風だけが通り抜ける静かな場所だった。だがその静けさは現在のものではなく、かつて誰かが声を潜めて立っていた時間の名残のように感じられた。
波打ち際に立つと、風のない方向から、わずかに鉄の軋むような低い響きが胸に触れた。あの日、祖父とユリは、この音を聞きながらどんな沈黙を共有したのだろう。
手紙の最後にはこうあった。
「もし約束の日に会えなくても、砂だけは海へ返してください。あなたがここに立っていた証が、潮の中に紛れるように」
僕は硝子瓶の蓋を開け、白砂をそっと海へ戻した。粒がほどけて沈むと、すぐに波が平らに撫でていった。その瞬間、風が強まり、海の匂いの奥に人の息のような気配が混じった。
帰宅して祖母にトランクを見せると、祖母は写真を手に取り、しばらく目を閉じた。
「ユリさんの字だね……あの頃はね、何が明日なくなるのか、誰にも分からなかったのよ」
それ以上、祖母は語らなかった。語られないことで、かえって真実が際立つようだった。
祖父の沈黙は、失われた恋だけでなく、その時代を生きた者が口にできなかった時間を抱えていたのだと知った。錆びたトランクには、取り戻せない季節のほこりと、確かに呼吸していた二人の気配が残っていた。
その夏、僕は祖父の影の一部を受け取った気がした。