【1000文字小説】バザールの郵便屋
モロッコの小さな街、マラケシュ。午前の太陽は赤土の建物に反射し、細い路地を黄金色に染める。郵便屋のアミールは、軽い荷物を背中に背負い、石畳の道を歩いた。バザールの喧騒がすぐそこに迫っている。香辛料の匂い、焼きたてのパンの香り、革のサンダルの音――すべてが入り混じる。
アミールの故郷は、内陸の静かな村だった。昼時には風の音しか聞こえず、郵便が届くのは週に一度ほどだった。街の雑踏や呼び声はいまだに慣れない。それでも、郵便屋として歩いている間だけは、胸の奥が落ち着く。届け先があり、名前があり、待っている人がいる。それが、ここで働く理由だった。
角を曲がると、小さなトラブルが起きた。荷物のひとつが、自転車の車輪に引っかかって転がり、石畳に強くぶつかる。乾いた音に、子どもが笑い声をあげ、周囲の犬が一斉に吠えた。
一瞬、胸がひやりとする。壊れていたらどうする。叱責されたら――そんな考えがよぎる。
アミールはすぐに駆け寄り、包みを拾い上げた。破れはない。指先で確かめ、そっと扉の前に置く。小さなハプニングだったが、自分がこの街で任されている責任の重さを、改めて意識する瞬間だった。
封筒には見覚えのある商人の家族の名前があった。差出人は丁寧なアラビア文字で書かれている。アミールがドアベルを押すと、年配の女性が顔を出した。
「アミール、今日もありがとう」
その声は、強い陽射しの中でふと差す日陰のように、穏やかだった。
「受け取っていただいて助かります。封筒はこちらです」
手渡すと、女性は笑顔で受け取り、中の手紙をちらりと見て、小さく何かをつぶやいた。その言葉の意味は聞き取れなかったが、声の調子だけで十分だった。
アミールは、村では感じることのなかった「人と人の間を行き来する感覚」を胸の奥で噛みしめる。
バザールを抜けると、空は深い青に変わり始め、遠くの山々がオレンジ色に染まっていた。商人の少年が駆け寄り、小さな袋を差し出す。
「アミール、これも届けて」
一瞬だけ、規則が頭をよぎる。郵便物ではない。断ることもできる。
だが少年の目は真剣で、行き先はすぐ近くだった。アミールは短く息を吸い、袋を受け取る。
「わかった。次の家だな」
軽い荷物だったが、その重さ以上のものを感じながら、次の路地へ進む。雑踏や香り、呼び声の中で、アミールは「故郷とは違う街で働く自分」を、はっきりと意識していた。
路地の先で、荷物を受け取った老夫婦が小さく手を振る。
「暑い中ありがとう」
その言葉に、アミールは思わず背筋を伸ばし、笑顔で会釈を返した。
村では名前も知られずに終わる仕事だったかもしれない。それでもこの街では、確かに誰かの一日につながっている。
午後の光が街を柔らかく包み込むころ、アミールは郵便局へ戻る。汗ばんだ額をぬぐいながら、今日もまた、小さな責任を無事に果たしたことを感じていた。
荷物の中には、文字だけでなく、笑顔や祈り、ささやかな物語が詰まっている。
街の一角で、郵便屋の午後は、ハプニングと選択、そして文化の香りに彩られながら、静かに、しかし確かに過ぎていった。