【1000文字小説】ちょうどいい苦さ
昼過ぎ、商店街の外れにある喫茶店のドアを押すと、鈴が少し遅れて鳴った。来るのは二度目だ。開店の日に顔を出して以来になる。椅子の位置も、壁の色も変わっていないが、あのとき棚に並んでいた花だけがなくなっていた。
「お、来たか」
カウンターの中にいるのは元同僚だ。会社を早期退職して、この店を始めた。前に一緒に飲んだ時より、少し痩せたように見えた。くだらない話も暗い話もする仲だ。気を遣うほどではないが、何でも言えるわけでもない。まあ、友達だ。
客は他にいない。前回もそうだったな、と思うと同時に、その事実に少しだけ居心地の悪さを覚えた。
「コーヒーでいいな」
「ああ」
豆を挽く音が、静けさの中で不自然に響いた。元同僚は途中で一瞬手を止め、挽き具合を確かめるように豆を指でつまんだが、そのまま何事もなかったように続けた。
話題は自然に暗い方へ流れた。膝が痛む。息子からは半年連絡がない。元同僚は、今月まだ一日も黒字になっていないと言った。昼に客がゼロの日も珍しくないらしい。
「まあ、趣味だよ。潰れなきゃいい」
軽く言うが、声は少し乾いていた。頷きながら、自分が同じ立場だったら、と考えてやめた。想像しても、ろくな答えは出ない。
コーヒーは苦い。前より苦い気がした。砂糖を入れると、今度は甘すぎた。どちらにしても、ちょうどいいところにはならない。
昔の上司の話をして、結局同じ結論に戻った。ああいう人間にはなりたくなかったが、なれなかったとも言い切れない。
代金を払い、「また飲みに行こう」と言った。
「飲みばっかじゃなくて、もう少しこっちにも来いよ」
いつものやり取りだ。守られたことは、今回が初めてだ。
外に出ると、商店街は平日の午後らしく静かだった。次にここへ来る理由を探し、すぐに見つけてしまった。
それがコーヒーのためでないことだけは、はっきりしていた。
理由があることが、なぜか嫌だった。探さなければよかったと思いながら、歩き出した。