【1000文字小説】チープなタイムマシン
九千八百円のタイムマシンは、季節外れの家電と同じ棚に置かれていた。安すぎて、本気で信じる方がどうかしている。説明は簡単だった。使えば過去へ行く。そして今の時間には戻ってこれない。行ったきりの片道タイムマシン。実際、使用者は消えるのだが、帰還例はないため、本当に成功したかどうかは使った本人にしかわからない。
それでも売れている。安いからだ。人は高価な奇跡には慎重だが、安い賭けには手を伸ばす。
四十歳の僕は、特に失敗しているわけでも、成功しているわけでもなかった。仕事は続いている。生活も破綻していない。ただ、何も増えていない。十年前から今日まで、減りもしなかった代わりに、何一つ積み上がらなかった。このまま何も変わらず終わるのではという不安。
理論では、過去へ行ってもこの世界は変わらない。今のこの世界とは別に、過去で分岐した世界が生まれるだけだ。ここが救われることはない。救いが起こりうるとすれば、向こう側だけ——それも、起こるかどうかは分からない。
四十歳の僕は、その不確かさを受け入れてスイッチを押した。
次に息をしたとき、十年前の街に立っていた。空が少し高く、街は若い。通りの向こうに、三十歳の僕がいる。猫背で、早足で、失敗する前に諦める癖を体に染み込ませた歩き方だ。
声はかけない。近づかない。過去の自分をやり直すために来たのではない。
三十歳の僕は、原稿を一つ捨てている。つまらないからではない。むしろ逆だ。三十歳の僕は、その原稿が嫌いだった。もしかしたら通用するかもしれない、という感触が、僕を臆病にした。自信があるのに、評価されなかったら…。そう考えて、僕は引き出しの奥に押し込み、やがて存在しなかったことにした。
僕はそれを拾った。名前を伏せ、経歴も語らず、出版社に持ち込んだ。笑われてもいい。拒まれてもいい。この世界に、その原稿が「出現した」という事実だけが欲しかった。
数日後、街ですれ違ったとき、三十歳の僕が一瞬だけ立ち止まった。視線が交わる。理由のない違和感が、彼の顔をかすめる。だが彼は何もわからない。ただ、胸の奥に小さな引っかかりを残したまま、歩き出す。
元の世界は変わらない。僕が消えた部屋は、今も空のままだろう。証明も、報告書も残らない。それでも、この世界では一つの物語が、読まれる可能性を得た。
九千八百円で、世界は一つ増えた。釣りは出ない。領収書もない。
未来は変わらない。だが、変わるかもしれない場所が、確かに増えた。きっと今日も誰かが安く買った奇跡で、別の世界に消えているはずだ。