【1000文字小説】任せられない
小さな会社のオフィスは、いつも慌ただしかった。
だが、その慌ただしさは忙しさから生まれたものではない。社長のやり方が、空気を急き立てていた。
「自分でやった方が早い」
その言葉は、いつの間にかこの会社の空気になっていた。
新しい企画書が必要になると、社長は誰かに声をかける前に、自分のデスクへ向かう。
「ちょっと頼む」という言葉は、途中まで喉にかかって消える。
画面の前で部下が手を止め、考え込んでいるのが視界に入ると、社長の胸の奥がざわついた。
――また遅れる。
――あの時と同じだ。
かつて、任せた仕事が原因で大口の取引を失ったことがある。
あの沈黙と、電話口の冷たい声を、社長は今も覚えている。
それ以来、任せることは「危険な選択」になった。
失敗するくらいなら、自分で抱え込めばいい。
そうやって守ってきた会社だった。
「これじゃ間に合わない」
社長はそう呟き、部下の手元からマウスを取る。
部下は何も言えない。ただ椅子を少し引き、画面を見つめる。
部下たちは育たなかった。
途中まで考えた案も、完成させる前に奪われる。
「最後までやり切った」という感覚だけが、いつも残らない。
メモを取り、手順を覚えようとしても、次の瞬間には社長の手が伸びる。
「ああ、やっぱり任せてもらえないのか」
胸に積もるのは、小さな屈辱と、言葉にできない虚しさだった。
ある日、一人の部下が勇気を振り絞り、口を開きかけた。
「この部分、自分に――」
だが、社長は聞き取れなかったふりをしてキーボードを叩き続ける。
その背中が、答えだった。
部下は言葉を飲み込み、画面から目を逸らす。
指先を強く握りしめながら、「どうせ覚えても意味がない」と心の中で繰り返す。
その言葉が、自分を少しずつ削っていることにも気づかないまま。
そして、辞める日が来る。
退職届を引き出しにしまう手が震え、呼吸が浅くなる。
社長が近づき、「何か問題でも?」と訊く。
部下は何か言おうとした。
だが、何年分もの言葉が喉につかえ、結局何も出てこない。
ただ、退職届を差し出す。
荷物をまとめながら、部下はこのオフィスで過ごした日々を思い返す。
誰かの役に立ちたかった。
だが、最後まで任された仕事は、一つもなかった。
残った部下たちは、その背中を黙って見送る。
胸の奥で、同じ未来を静かに思い描きながら。
社長は今日も忙しい。
電話が鳴り、メールが積もり、仕事は減らない。
部下を信じて任せるより、自分でやる方が怖くなかった。
「任せるくらいなら、自分でやる」
そう言い聞かせながら、社長はキーボードを叩く。
気づかぬうちに、オフィスから人の気配が薄れていく。
誰も声を出さず、誰も笑わない。
やる気も、希望も、音を立てずに蒸発していく。
それでも仕事は続く。
このやり方しか知らないまま、明日もまた一日が始まる。
――変えられないのか。
それとも、誰も変えようとしなかっただけなのか。
小さな会社の時間は、今日も重く、静かに流れていく。