【1000文字小説】二百歳のはじまり
手書きだ。郵便受けに入っていたチラシの中にまぎれて、一枚だけ場違いな和紙のようなチラシが挟まっている。墨で書かれた「長寿体操」の文字は妙に力強く、筆の掠れまで生々しい。
三十歳の誕生日を過ぎてから、綾は胸の奥に薄い膜のような疲れを抱えていた。会社では新人の教育係になり、やる気のなさに腹が立ち、帰宅すればベッドに沈むだけ。ヨガの動画を開いても、マットを敷く気力が起きない。
その朝、鏡に映った自分のくまを見て、「このまま何も変わらないのが一番怖い」と思った。だからだろう。普段なら捨てるはずのチラシを、無意識にバッグへ滑り込ませたのは。
夜、ネットで調べると、「中国で二百歳まで生きた人物がやっていた」などの怪しい文句が溢れていた。だが、肩の重さにうんざりしていた綾は、半ば衝動的に体験会の住所をメモし、翌朝、家を出た。
示された場所は、昔ながらの商店街の奥だった。錆びたシャッター、色褪せたのぼり、乾物屋の前で猫が気怠そうに丸くなる。八百屋には、泥の香りが残る大根が無造作に積まれていた。
集会所は、昭和の面影を残す木造の平屋。ガラス戸には手の跡のような曇りがあり、軒下の風鈴がからりと鳴った。
中へ入ると、乾いた木の匂いがした。十人ほどの参加者がゆっくりと腕を回している。
「新しい方ですね。焦らんで、焦らんで」
そう声を掛けた老人は、藍染めの作務衣に身を包み、ひげが柔らかく波打っていた。目尻の皺が深く、笑うとそこだけ世界が明るくなるようだった。
二百歳だと言われても納得できるような老人は胸の前で手を合わせ、軽く礼をしてみせた。「息はね、吸うより吐くが大事。嫌なものほど、先に捨てるんですよ」
綾は見よう見まねで動きを真似た。ゆっくり腕を伸ばし、足を上げる。ただそれだけなのに、呼吸が合うにつれ、肩の奥が温かくなった。畳の反射が柔らかく揺れ、空気に甘い匂いが混じる。
ふと、その甘さが、幼い頃に祖母の家で嗅いだ白湯の湯気の匂いに似ていることに気づいた。熱を出した夜、祖母が背中をゆっくり撫でてくれたこと。あの時の温かさが、胸の奥で静かに蘇った。
綾の目の端に、熱がにじんだ。自分でも驚くほど自然に。
動きを止めた老人が、そっと近づき、声を落とした。
「大丈夫。人間ね、軽くなる瞬間は突然くるもんです」
その声の柔らかさに、綾は堪えていた涙をひとつ、静かに落とした。
終わる頃には、体だけでなく心までゆるんでいた。老人がひげを撫でながら笑う。
「二百年? そんなの、ただの宣伝文句ですよ。けどね、今日が昨日より少し楽なら、それで立派」
綾は深く息を吸い、「……また来たいです」と言った。
外へ出ると、商店街のアーケードに朝日が差し、古いガラスがまばらに光を跳ね返している。
歩き出した綾の足取りは、来る時よりずっと軽かった。
小さな一歩で風が通ることがある――二百歳は無理でも、今より少し長く、軽やかに生きていける気がした。