【1000文字小説】終わりのレジ
閉店の夜、居酒屋「井の字」には、いつもより少し騒がしい笑い声が漂っていた。常連たちは「最後くらい盛り上げねぇとな」と言いながら飲み、店主の敏雄はグラスを拭きながらその光景を眺めていた。
——こんなに人が来るんなら、もっと早く来てくれよ。
自嘲めいた思いが胸に滲む。
久美がテーブルから戻り、小声で言った。「ねぇ大将、今日だけは、楽しい顔してよ」
冗談めかした口調なのに、彼女の目は少し赤かった。
敏雄は苦笑し、焼き台に向かう。「楽しい顔なんて、俺の引き出しにあったかね」
久美は肩をすくめ、「あるよ。たまに、ちょっとだけ」と返した。その一言が胸に刺さる。
五年前、初めて店に来た日のことが浮かんだ。慣れない手つきで皿を割り、泣きそうになっていた少女に、「そんなこと気にすんな」と声をかけた自分。あれから彼女は、誰より頼れる存在になった。
「大将、焼き鳥追加!」常連の声。
「はいよ」と返しながらも、敏雄の胸には別の言葉が渦巻く。
もっと魅力のある店だったら、久美をもっと輝かせられたんじゃないか。
もっと自分に愛想があれば、客足も違っていたんじゃないか。
深夜が近づくと、一人、また一人と客は帰っていった。最後の客が扉の前で振り返り、「ここはいい店だったよ」と言って去った。その言葉に嘘はないだろう。けれど、経営は言葉だけでは続かない。
店に残ったのは敏雄と久美だけ。静まり返った店内で、敏雄は静かにレジを閉じた。これだけの売上が毎日あったら……。
今日の数字はただの記録で、未来は何も約束してくれない。
久美がふっと息をついた。「大将、わたし、この店好きだった…」
声は途切れ、言葉の余韻だけが静かな店内に漂う。敏雄は何も返せず、ただカウンターの向こうを見つめる。十年間、積み重ねてきた時間の重みが、今は虚しさとして胸に落ちてくる。
電気が落ち、外の薄い街灯だけが店内を照らす。敏雄は鍵を閉め、シャッターをゆっくり下ろす。金属が擦れる音が、長い時間の終わりを告げる。
その音が消えたあとも、店には何も残らない。笑い声も、グラスのぶつかる音も、香ばしい焼き鳥の匂いも、すべて静寂の中に溶けた。
「来月から、またサラリーマンだな」
ぽつりと口にした声は、自分でも驚くほど空虚だった。久美は小さく肩を揺らすだけで、二人の間に希望の光はない。ただ、終わったという重みだけが、夜の静けさに染み込んでいく。
閉店の夜は、何もかもを飲み込み、静かに更けていった。