【1000文字小説】誰かの頼み

 ヨシエは、朝の柔らかい日差しに包まれながら、台所の椅子に腰掛けていた。手元の茶碗をぎゅっと握ると、心臓が少し早く鼓動した。電話の向こうで声が震えている。「おばあちゃん…僕、事故を起こして…。慰謝料、一千万円、払わなきゃいけなくて…」

ヨシエは一瞬、息を呑んだ。しかしすぐに落ち着きを取り戻す。長年少しずつためてきた貯金、年金の積み立て、昔からの少額投資――今の自分の生活を支えるには十分すぎる額がある。若い頃から節約を心掛け、今という老後のために蓄えを作ってきたことを思い出す。決意は自然に湧き上がった。

机の引き出しから通帳を取り出し、残高をざっと確認する。額を見て、手が少し震える。けれども迷いはなかった。「これで、安心できる…」――その瞬間、胸の奥で何かが軽く弾むような感覚が走った。自分のために貯めてきたお金を、今、自分の判断で使う――その自由さが、心の奥底の小さな戸をひとつ開いたように感じさせた。

銀行に着くと、窓口の係員に通帳を差し出す手が少し震えた。振り込み手続きは滞りなく進む。手続きが終わると、ヨシエは小さく息を吐いた。自分の行動が現実を動かすという感覚が、心を満たす。

帰宅して縁側に腰を下ろす。冬の光が柔らかく差し込み、庭の木々の影が揺れる。手を合わせ、小さくつぶやく。「よかった…自分の判断でできた…」

胸に静かな誇らしさが広がる。長い人生で、誰かのためでなく、自分の思いで大きなことを成し遂げたのは初めてかもしれない。小さな英雄のような気分が、胸の奥で膨らむ。

夕暮れが近づき、空がオレンジ色に染まる頃、再び電話が鳴った。孫の声だ。「おばあちゃん、僕の口座に一千万円振り込まれてるよ。どうしたの?」

ヨシエは答えた。「ああ…お前から事故を起こしたって電話がきたから、心配になって振り込んだのよ」

孫は電話の向こうで声を張り上げる。「そんな電話、してないよ!」

「え?」ヨシエは頭の中が一瞬真っ白になる。「あれ…もしかして、騙されかけたのかしら…?」ヨシエは自分の判断に少し赤面しながらも、妙な達成感を覚えた。

しばらくして、ヨシエは椅子に腰を下ろす。電話を手元に置き、微かに笑った。困惑と達成感、不思議な余韻が縁側の冷たい冬の空気の中で胸に広がる。

「まあ…これも、私の今なんだろうね…」

外の風が縁側を通り抜ける中、ヨシエはその言葉を何度も反芻し、ゆっくりと目を閉じた。


<1000文字小説目次>

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