【1000文字小説】五月の空の青
五月の風が、乾いた音を立てて葉桜の葉を揺らす。新緑の眩しさが目に痛い程だ。足元には、背の低い雑草達が青々と茂り、その間から小さな白い花や紫色の花が顔を覗かせている。誠は近所の公園を散歩していた。最近の対局は連戦連敗で、失意の中での散歩だ。
誠は四十歳。将棋界ではそろそろベテランと呼ばれる域だ。これまでの最高成績は竜王戦の本戦ベスト8。タイトル経験はない。これからも多分ない、そう思いながら深くため息をつく。風が吹き抜け、葉桜の葉がカサカサと鳴る。まるで自分の空虚な戦歴を嘲笑うかのようだ。思えば、この世界に入って二十年。同期の棋士には、タイトル戦の舞台に立ったり、解説者としてテレビに出演したりしている者もいる。だが自分はずっと足踏みをしているような気分だ。
公園の池では、鯉がのんびりと泳いでいる。水面には、五月の青空が映り込んでいる。ベンチに腰を下ろし、コンビニで買った缶コーヒーを開けた。あたりには、初夏特有の、青臭くもすがすがしい草木の匂いが満ちている。この匂いを嗅ぐたび、将棋漬けだった日々を思い出す。あの頃は、夢中で、ただ強くなりたいと願っていた。遠くでは子供達が歓声を上げ、その声が柔らかな午後の空気に溶けていく。
公園にあるグラウンドでは、親子がキャッチボールをしていた。まだ幼い子が、ぎこちないフォームで投げたボールが、父親のミットに収まる。プロ野球の世界も皆が皆、ホームラン王や沢村賞投手になれるわけではない。それでも、彼らはグラウンドに立ち続ける。子供がボールを追いかける姿に、自分もまた将棋盤の前に座り続けるしかないのだと、重ねてしまう。
「先生、お疲れ様です」
声の主は近所に住む将棋好きの老人だった。「昨日の対局、残念でしたね。しかし、あの終盤の粘り、感動しましたよ」誠は苦笑した。「ありがとうございます。でも、負けは負けですよ」老人は、誠の隣に腰を下ろした。「わしはね、先生の将棋が好きなんですよ。派手さはないけれど、誠実で、一生懸命で。若い頃から奇手ばかり追っていたわしには、先生の将棋が眩しいんです。きっと、努力は報われますよ」報われますよか。そんな保証はない。盤に向かうしかない。それが、自分の選んだ道だ。
立ち上がり、公園を出る。五月の空はどこまでも高く、青い。その青さはあまりにも鮮やかで、自分の内側の澱んだ感情とは対照的に、残酷なほど冷たく感じられた。足取りは軽くならない。(文字数:1003)