【1000文字小説】月光の下で生き延びる
深夜二時、病院はほとんど眠っていた。ナースステーションの蛍光灯だけが白く光を放ち、私と先輩の二人だけが、カルテを睨みつつキーボードを叩いていた。外の静けさとは裏腹に、フロア内では時計の秒針がやけに大きく響く。
「疲れたね」と先輩が小さく呟く。「仮眠、取ってくる?」
私は首を横に振った。まだ終わらない仕事が残っている。
「大丈夫です、もう少し」と返すと、先輩はため息をつき、仮眠室へ消えた。
一人残された私は、モニターの淡い光に照らされながら思う。こんな時間まで働いて、給料は雀の涙。腰も肩も痛む。頭の中では転職のことがちらつくが、現実は簡単じゃない。次のナースコールはいつ鳴るかもわからない。
「カチッ…」
ナースコールが鳴った。三〇五号室。足を骨折して動けないおばあちゃんだ。
「はい、三〇五号室です」
「看護婦さん…外が…すごく綺麗なの」
声は小さく震えている。私は時計を見る。深夜二時、外は真っ暗だ。
「外は真っ暗ですよ。眠れませんか?」
「違う違う。満月がね、いつもより大きいの。一人で見るのもったいなくて」
半信半疑で窓から外を見ると、冬の冷たい空に冴え冴えとした満月が浮かんでいた。病棟の白い壁を淡く染め、深夜の静けさの中で、ほんの少し特別な光を放っている。
「本当ですね、綺麗なお月様ですね」と答えながらも、心の奥ではつい思う――「月見てナースコール押すなよ。こっちは忙しいんだって」
受話器を置き、窓越しに月を見上げる。確かに美しい光だ。でも、ほかの患者は大丈夫だろうか? 急変してもおかしくない。眠れない患者もいる。疲れた体と頭は休みを求めているのに、現実は待ってくれない。
小声で「もう限界かも」と呟き、背中を伸ばす。腰も肩も痛む。深夜の静けさの中で、愚痴だけがまとわりつく。
月は私を見守るでもなく、待つでもなく、ただ変わらずそこにある。世間の「白衣の天使」像は、ここには存在しない。
パソコンに戻り、カルテを片付ける。モニターに映る自分の疲れた顔を見て、ふと笑った。今日もなんとか生き延びた。明日も多分、同じ時間に、同じ愚痴を呟きながら働くだろう。
深夜二時、現実の重さだけが、静かに私を抱きしめていた。
そして、満月だけは、少しだけ優しく照らしてくれていた。