【1000文字小説】最後のコーヒー
古びたマグカップを手に、僕はベランダへ出た。午前四時十五分。街はまだ眠りの底に沈み、遠くで新聞配達のバイクがかすかに響く。肌寒い空気に触れ、コーヒーの湯気が白くほどけていく。
このマグでコーヒーを淹れるのも、今日が最後だ。
彼女が家を出てから七日目。広すぎる部屋には、まだ彼女の痕跡が漂っている。キッチンの棚には、中煎りの豆が半端に残り、冷めたカップがひとつ、テーブルに置かれていた。あの日、僕が寝坊して彼女の朝を壊した日のままの形で。
「朝のコーヒーってね、生活のリズムを整えてくれるんだよ。気持ちまで明るくなるの」
彼女はよくそう言った。休日には「一緒に飲もうよ」と誘ってくれたこともある。でも僕は布団に潜り込み、二度寝の誘惑に負け続けた。目覚ましを三つもセットしたあの日も、結局昼まで寝てしまい、キッチンに残された冷めたコーヒーと小さなメモ。「起こさなくてごめんね。仕事行ってきます」胸の奥がきゅっと締まる感覚を、今も覚えている。
ベランダの手すりに肘をつき、東の空を見上げる。白み始めた空は、ほんの少しずつ朝色に染まっていた。コーヒーを口に含む。苦い。あの日の彼女の味そのままだ。
僕はタバコに火をつけ、苦い煙を肺に沈める。意識が少しだけ澄んだ瞬間、心の奥の迷いが顔を出した。まだ、あの時の失敗を引きずっている自分。彼女の時間と僕の時間のズレ、それを埋める努力を怠った自分。
ふと思い出す。休日の朝、彼女が小さな声で「ほら、一緒に飲もう」と微笑んでいた瞬間。僕は布団の中でその手を握ることもせず、ただ眠りに沈んでいた。その時の後悔が、胸を重く締めつける。
残ったコーヒーをゆっくり飲み干す。苦い。でも、この苦味を抱え続ける必要はない。新しい街では、ちゃんと朝を迎える生活を始める。朝陽に照らされたキッチンで、ミルクをたっぷり入れた甘いコーヒーを淹れよう。あの苦味は過去の僕のもの。甘さは、“ここからの自分”を象徴する味になるだろう。
マグカップを軽く握りしめ、僕は最後の荷物を箱に詰める。胸の奥に小さな温度が灯るのを感じた。迷いはまだ完全には消えていないけれど、確かに朝の光は、新しい一日の合図だ。
新しい生活は、甘い香りから始めよう。もう迷わない。僕は、僕の朝を自分の手でつくる。