【1000文字小説】浮遊停留所の向こう側
空に浮かぶ大小の島々を、虹色の光が縫うように架かる浮遊橋が繋いでいる。そんな街の唯一の公共交通は、錆びつき羽根が軋む古い飛翔車だけだった。一日に三便しか来ず、停留所には屋根もなく、雲の上にぽつんと浮かぶ浮遊ベンチが一つあるだけだ。そこは、ユルナが最も好きな場所だった。
毎朝、始発の飛翔車が来る前にユルナはそこへ来て、古い魔導書を開く。紙の匂いに淡い魔力の残香が混じり、風とともに頬を撫でる。島の外に出たことはまだない。それでも、空の上でページをめくるこの時間だけは、外の世界にすこし触れられるような気がした。
ある朝、浮遊ベンチに見慣れない青年が座っていた。深緑のマントに大きな魔法リュック。指先は落ち着きなく紐をいじり、視線は遠く漂う竜の群れへ向けられている。ユルナは迷いながらも隣に腰掛け、魔導書を開いた。
「これ、面白いですよね」
青年が柔らかく声をかけた。見ると、彼も同じ魔導書を手にしていた。
「ええ。世界が呼吸しているみたいで、好きなんです」
そう答えると、青年は少し安心したように微笑んだ。
「登場人物たちが…どうしてか、自分と重なる気がして」
その声には、挫折の影が淡く揺れていた。
青年の名はリオン。天空都市の魔導試験に失敗し、故郷の島へ戻ってきていたという。
話をするとき、彼の指先はそっとリュックの端を叩き、自分の不安を誤魔化すようだった。
「僕はこれから、もう一度挑戦しに都市へ戻るんです」
そう語る目には、諦めきれない光が宿っていた。
ユルナも、小さく胸の内を明かした。
島から出たことはないけれど、いつか空の向こうへ旅してみたい。
この場所で本を読みながら、知らない世界を思い浮かべてきたこと。
「出発前の短い時間ですが、このベンチにいると、少し心が整う気がします」
「……私もです。ここは、雲の上からそっと守ってくれているようで」
羽音と蒸気の匂いが近づいた。飛翔車が浮遊橋の向こうに姿を現す。
リオンは立ち上がり、深く息を吸ってリュックの紐を握り直した。
「じゃあ、行きます」
「魔の嵐にも竜の群れにも、気をつけて」
ユルナの声に押されるように、リオンは微笑みを残して走り出す。
振り返ると、軽く手を挙げてから飛翔車へ乗り込んだ。
羽ばたく音が空に溶け、機体はゆっくりと離れていった。
静寂が戻ったころ、ユルナは足元に小さな光を見つけた。
それは、リオンが読んでいた魔導書に挟まれていたらしい、銀糸で縁取られた一枚の栞だった。
急いでいる中で落としたのか、
それとも、別れの言葉代わりに置いていったのか。
ユルナには確かめようがない。
ただ、栞に記された細い筆跡だけは確かだった。
「いつか、停留所の向こう側で」
ユルナは空を見上げた。浮遊島の光がゆらめき、雲の切れ間を抜ける風が、心に灯った小さな希望を揺らす。
いつか自分も旅立つだろう。
そのとき、どこか別の空でリオンと再び出会える気がした。
そう思うだけで、空は昨日より少し広く見えた。