【1000文字小説】夜中の調べ

 築四十年の灰色の団地。その四階で、私は三十年近く一人暮らしをしている。隣の402号室には、小野さんという女性が住んでいた。娘さんが学生の頃、昼間にピアノを練習していたのをよく覚えている。鍵盤を叩くたびに団地の壁が微かに振動した。それでも誰も文句を言わなかった。若い音は団地に希望のように響いていたのだ。


娘さんが結婚して出ていってからは、ピアノも沈黙し、小野さんは静かに暮らしていた。しかしある深夜、突然ピアノの音で私は目を覚ました。午前二時。「エリーゼのために」がか細く、ところどころつまずくように響く。まるで鍵盤の上を記憶がたどっているかのような、不思議な音だった。


その音は一晩限りでは終わらなかった。翌日も、翌々日も、昼夜を問わず鳴り続けた。私は夜中のピアノに苛立ち、思わず壁を叩きたくなる衝動に駆られた。管理人に相談すると、少し言葉を選びながら説明してくれた。

「小野さん、最近よく昔のことを思い出して、ついあの頃のように行動しちゃうようなんだ。娘さんも来てるけど…」

その説明を聞き、私は胸が痛んだ。最近、小野さんは外で会っても話がとぎれがちだった。「あなた、二階の方?」と尋ねられたこともあったし、買い物袋を落として何を拾えばいいかわからず立ち尽くしていた日もあった。認知症、というものなのだろうか。


夕方、小野さんの部屋をノックすると、少し遅れて出てきた。鍵を外す手が震えている。「どうしたの?」と微笑む顔には、以前の面影が残っていた。私が「ピアノの音が…」と告げかけると、彼女は穏やかに遮った。「娘がね、明日コンクールだから。今も練習してるの。うるさかった?」部屋の奥を振り返るが、誰もいなかった。


私は言葉に詰まり、「いえ…少し驚いただけです」と答えた。小野さんは安心したように微笑み、「この子、頑張り屋でね。小さい頃から日が暮れるまで練習してたのよ」と話す。その言葉に、胸の奥が締め付けられた。


夜もピアノは鳴り続けた。音程は狂い、曲は何度も途中でつまずく。それでも、音の中には娘さんの記憶が息づいているのだろう。耳栓を手に取り迷う自分に、苛立ちと同情が交錯しながらも、結局布団に横になった。


「大丈夫、ピアノの音、聞こえていますよ」――誰に向けた言葉かわからなかった。小野さんの記憶の中で、娘さんは今日もピアノを弾いている。私はただ、その止まない調べを受け止めながら、静かに目を閉じた。


<1000文字小説目次>

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