【1000文字小説】地図の一点
午前七時。都市の朝が本格的に動き出す前、タクミはカフェテリア「クロノス」のドアを押した。
ドアが開くと、小さな金属音が澄んだ空気に溶け、店内の静かな朝をそっと区切った。
窓から差し込む柔らかな光が木製のテーブルを淡く照らし、珈琲の香りがふんわり漂っている。いつもの席は空いていたが、今日はどうにも落ち着かず、タクミはふと目にとまった別の席に腰を下ろした。そこは、普段なら選ばない店の奥寄りの席だった。
視線を上げると、壁際に古びた大きな地図が飾られているのが目に入った。
(こんなところに地図があっただろうか……)
何度も来ているはずなのに、これまで一度も気づかなかった。
「ブレンド、お願いします」
タクミの声に、カウンターの向こうでゲンさんが静かに頷いた。年季の入った手つきで珈琲を淹れる音が心地よく響き、湯気に混じる苦味がタクミの胸の詰まりを少し和らげた。
「最近、無理してるように見えるぞ」
珈琲を置きながらゲンさんが言った。
「締め切りに追われてて……アイデアが出なくて」
「焦っても良いものは生まれんよ」
タクミは苦笑してカップを手にした。
湯気の向こうで、老紳士が新聞を広げている。紙の擦れる音が静けさに心地よく混じる。女子学生は参考書に線を引き、ページをめくるたびに柔らかな紙の音が響く。二人とも言葉を交わすわけではないが、同じ空気をゆったりと共有していた。
タクミは再び地図に目を向けた。近づいてみると、黄ばんだ紙にいくつもの小さなピンが刺さっている。それぞれに、年代も筆跡も異なる短いメモが添えられていた。
「1992年7月15日 ここで初デート」
「2005年4月1日 初めて自分の店を持った」
どの言葉にも、書いた人の息づかいが宿っているようだった。
「いい地図だろう」
背後から老紳士が新聞越しに声をかけた。
「人生には、こういう“一区切り”が大事なんだよ」
女子学生も微笑みながら言う。
「ここに来ると落ち着きます。勉強、うまくいかなくても」
タクミは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
——自分が作りたかったのは、流行を追いかける派手なデザインではなく、人の心の奥にそっと残るものだったのではないか。
タクミはペンを取り、地図の余白に小さく書き込んだ。
「2018年1月17日 大切なことを思い出した場所」
席に戻ると、珈琲の香り、木の温もり、窓からの柔らかな光……そのすべてが、彼の心を静かに整えていくようだった。
「ありがとう、ゲンさん。……行ってきます」
店を出る前に振り返ると、老紳士も女子学生も、変わらないペースで自分の時間を生きていた。
外の街はいつも通り慌ただしい。けれどタクミの中には、クロノスで流れる“自分の時間”が確かに宿っていた。
そのゆっくりとした時間を抱きしめながら、彼は新しいデザインへと歩き出した。