【1000文字小説】猫の午後
午後の光が窓際の私の席を白く照らしていた。
本当なら、美羽と笑い合っていたはずだ。
去年の春からずっと、私は美羽と一緒に弁当を食べ、他愛ない話をしてきた。
笑うとき少し肩が揺れる癖も、声の高さも、全部知っている。
でも今日は、目を合わせてもらえない。
昨日のケンカ以来、美羽は私を避けている。胸が重い。
ふと校庭を見ると、一匹の黒猫がじっとこちらを見ていた。
光の角度で瞳が赤く光ったように見え、思わず息をのむ。
――猫になれたらな。
誰にどう思われるかなんて、気にしなくていいのに。
「猫がいる!」
誰かが叫んだ瞬間、世界が裏返った。
床が近い。
机は巨大で、脚が林のように並んでいる。
ふるえたひげが視界の端をくすぐり、前足が黒い毛に覆われている。
――私、猫になった?
「どっから入ったの?」「やだ、怖い」
クラスのざわめきが耳に刺さる。
美羽だけが私をじっと見つめていた。その目が、なぜか“私を知っている”ようで、寒気がした。
先生が近づき、落ちついた声で言った。
「扉閉めて。逃げられると厄介だから」
厄介って……どういう意味?
逃げなきゃ。
そう思った瞬間、体が勝手に動き、私は教室の隅から廊下へと走り出した。
出口の手前で、影がゆらりと揺れ、私の足に絡みついた。
冷たく、ざらついていて、深い井戸の底みたいな感触。
「……ひとり、増えたね」
声が耳元で笑った。
黒猫の声ではない。もっと古くて、暗くて、湿っている。
影が全身にまとわりつき、視界が黒に沈んだ。
*
気づくと、私は校庭の隅にうずくまっていた。
黒猫のまま。
ひげが風で震え、尻尾が思うように動かない。
急いで顔を上げる。
校舎の窓に、私の席が見える。
“私”がいた。
私の筆箱を手にし、ノートを広げ、クラスメイトと当たり前のように話している。
何を書いているかなんて、猫の目では分からない。
でも、うなずき方、背中の角度、声の調子――全部“私そのもの”だった。
美羽が笑っていた。
あの少し肩が揺れる笑い方で。
その視線の先には、もう私ではない“私”がいる。
胸が締めつけられた。
奪われた――その言葉が頭から離れない。
窓の“私”がふと校庭を見た。
まっすぐに、迷いなく、私(猫)を。
その笑みは、私が知っている私の笑い方ではなかった。
口元がほんのわずかに裂けるような、不自然な笑い方。
その瞬間、教室の奥で黒い影が揺れた。
“私”のすぐ近くに寄り添うみたいに広がり、光に溶けるように消えた。
私は逃げようとしたが、足が震えて動かない。
胸の奥に冷たいものが入り込んだみたいで、息が浅くなる。
午後の光が弱まり、影が長く伸びていく。
その影がまた私の足元に触れた。
冷たく、やさしく――まるで「おいで」と言っているみたいに。
最後にもう一度窓を見た。
そこでは“私”が、美羽の隣で笑っていた。
まるで最初から、私が私じゃなかったみたいに。