【1000文字小説】眠りに目覚める
終電のホームで視界が白く霞んだ夜のことを、真由子はいまでも鮮明に思い出す。冷たい風が頬をかすめるのに、身体の奥は逆に熱を帯び、脚が自分のものではないようだった。スマホには未送信の仕事のメモ。あのとき「あと一歩倒れたら本当に終わる」と思い、以来ずっと胸の奥に小さな影が残っている。
時計が夜八時を指すと、その影をそっと撫でるように、真由子の夜が始まる。天井灯を落とし、琥珀色の間接照明をつける。光が壁に柔らかい曲線を描き、部屋をやさしく包む。ラベンダーとサンダルウッドの香りが混じり合い、ゆっくりと吸い込むたびに胸の奥のざらつきが滑らかになっていく。
仕事帰りのカバンから、小さく折り畳んだメモ帳を取り出す。そこには親友の麻美に言われた言葉が貼られている。「寝るのは逃げじゃなくて、続けるための力だよ」過労しか知らなかった頃には理解できなかった言葉。今は、この一文が夜の支えになっている。
八時半、ヨガマットを敷き、背筋を伸ばす。深呼吸を繰り返すと、昼間上司の言った「説明が雑だよ」という言葉が頭の隅で小さく響く。しかし、その言葉に振り回されなくなった自分を感じる。呼吸が深まるにつれ、影は影のまま、ただそこにあるだけになっていく。
九時前、湯船にゆっくりと沈む。柑橘の香りの湯気に、疲労がほぐれるように吸い上げられていく。湯面がわずかに揺れるたびに、今日の小さな気づきや不安が、表面張力のようにふと浮かんではすぐ溶けていく。ふいに、麻美に返信していないことを思い出す。「今度新しい寝具見に行こうよ」というメッセージ。思わず微笑む。眠りを大切にする自分を、彼女が誰より喜んでくれている。
九時半、布団に潜り込む。体圧をやわらかく受け止めるマットレス、温度をちょうどよく保つ羽毛布団、指先をすべらせると微かに冷たく、そのあとすぐ体温になじむリネンシーツ。真由子のこだわりが詰まった寝具に包まれると、背中からふっと力が抜ける。
外から聞こえる車の音が遠く揺れ、間接照明の光がふんわりと布団を照らす。目を閉じると、一日のざわめきが静かに沈んでいく。香りも光も、布団の温かさも、自分を守る柔らかな殻のようだ。
——あの日、倒れかけたホームで初めて知った。眠りは、逃げではなく、生き続けるための力なのだ。
今日もまた、眠りの大切さに静かに目覚めていく。