【1000文字小説】いつも一人の夜
悠人は、デスクに置いた紙コップのコーヒーをそっと回した。もう冷たくなっている。同僚たちが週末のバーベキューの話で盛り上がる輪の端に、彼は溶けずに佇んでいた。「鈴元も来る?」とひとりが軽く声をかける。悠人が視線を上げると、相手はすでに答えを知っているような笑みを浮かべていた。
「その日はちょっと…」
口にした瞬間、会話の輪はあっけなく閉じた。デスクの灯りが反射するガラス越しに、淡いオフィスの蛍光色が揺れている。外の街灯と交差する光のラインに、今日も自分だけが時間をズラしているような錯覚が走った。
定時になるとPCを落とし、立ち上がろうとしたとき、総務の女性が小走りに近づいてきた。
「あの、今日みんなで軽く飲みに行くんですけど…良かったら」
声は控えめなのに、どこか迷いを含んでいた。
悠人は息を吸い、返事を探した。しかし喉がわずかに震えた。
「いや…今日は…」
言い終える前に、胸の奥がきゅっと縮む。
「そうですか、また声かけますね」
彼女は軽く会釈して離れていった。残された空気だけが、彼の肩に触れて消えていった。
外へ出ると、冬の風がビルの隙間をすり抜け、コートの裾を揺らした。街灯に照らされた濡れた舗道が銀色に光り、足音が静かに反射する。信号前で立ち止まると、先ほどの同僚たちが楽しげに肩を寄せ歩いていくのが見えた。冷えた空気に混じる彼らの笑い声は、遠くで波のように揺れながら届く。
その輪の中に、自分の姿をほんの一瞬だけ重ねてみる。
次の瞬間、思わず足先が後ろに引いた。
似合わない。
それでも胸の奥がわずかに熱を帯びる。否定できない温度だった。
駅前のベンチに座り、悠人はポケットからスマホを取り出した。
画面を点ける。
通知はゼロ。
メッセージアプリのアイコンも、SNSも、変化はない。
“友人・知人からの通知が一つもない静けさ”が、今夜は特に深く胸に落ちる。
風に乗って遠くから救急車のサイレンが響き、街路樹の葉が乾いた音を立てる。画面に映る自分の目が、思っていたより疲れて見えた。
しばらくして、悠人はゆっくり立ち上がった。
家へ向かう足は自然に前へ進む。しかし、数歩進んだところで、ふと振り返る。
駅前の光がわずかに揺れ、街のざわめきが遠くから寄せてくる。湿った空気にわずかに焦げた香りが混じる。
――今日くらい、行ってもよかったのかもしれない。
胸の奥で、微かに灯った思いが消えないまま、悠人は歩き出した。
いつもの帰り道。だが、今夜だけは、街の灯りも、風も、そして自分の胸の奥も、わずかに違った温度を帯びていた。
夜は静かに降り、光は揺れ、孤独の中にひそかな希望が溶けていく――冬の灯りの中で。