【1000文字小説】続けた胸板

 五十を少し過ぎた佐藤は、毎週金曜日の夜、ジムへ向かうのが習慣になっていた。筋トレを始めた理由は、同僚の軽い誘いがきっかけだった。同じ部署の鈴木が、笑顔で「最近ジム通い始めたんですよ。体も鍛えられて、ストレスも減りますよ」と言ったのだ。正直、最初は半信半疑だった。だが、階段で息が上がる自分の体や、椅子に座るたびに感じる肩や背中のだるさを思い出すと、「やってみようか」と重い腰を上げた。


鈴木は熱心に通ったのはほんの数週間だった。最初のうちは張り切ってウェイトを上げていたが、ある日突然「やっぱり自分には合わない」と言い残し、ジムから姿を消した。それに比べて佐藤は、無理のないペースで淡々と続けた。週一回のジム通い、自宅での腕立てや腹筋。プロテインを飲み、タンパク質中心の食事に少しずつ切り替えていく。


一年経った今、胸板は厚くなり、シャツの前ボタンがわずかに張る。肩や腕の筋肉も力強くなり、椅子に座ると背中が自然に支えられる感覚がある。鏡の前で胸を張ると、その圧迫感さえも心地よく思えた。


ジムでは、ベンチプレスで胸の筋肉がぷくっと膨らむのを確認し、ダンベルを持ち上げるたびに腕や肩の線がくっきりと浮かぶ。ケーブルマシンで背中を引くと、肩甲骨の間の筋肉が力強く動き、汗が背中を伝って滴る。トレッドミルで軽く走れば、呼吸が整い、心拍のリズムに合わせて体全体が温まる感覚がある。


自宅でも筋トレは欠かさない。リビングのカーペットの上で腕立てを繰り返すと、胸の筋肉が床に近づくたびにぷくっと膨らみ、腕の力が手に伝わる。腹筋を上げ下げするたびに、腹筋の線が浮かび、腰の周りの贅肉が徐々に締まっていく感覚がある。夜の静かな部屋で、息を整えながら鏡に映る自分の体を見ると、汗に濡れた肌が筋肉の輪郭を際立たせる。


職場で鈴木が佐藤の胸板と肩幅に目を止め、思わず口を開く。

「逞しくなりましたね……俺も続けてればなあ」

鈴木の声には、軽い後悔と羨望が混じっていた。佐藤は苦笑いしつつも、胸の内で静かにうなずいた。続けてきた時間が、この胸板に宿っている。


外出時、シャツやジャケットのシルエットも変わった。肩幅が広く見え、胸板の厚さで服が少しパンパンになる。椅子に座ると胸や腕の筋肉が背もたれに押しつけられ、立ち上がるときには以前より軽やかに動ける。日常の些細な動作で筋肉の手応えを感じられることが、何よりの実感だった。


独身で一人の夜、ソファに沈みながら、腕や胸の膨らみを確かめる。汗で少し冷えた体を感じながら、今日も自分の胸板が確かに「続いたこと」を実感する。五十歳を過ぎても、体は変わるのだと、静かに、しかし力強く感じていた。


<1000文字小説目次>

人気の投稿

ソニーのステレオラジカセ・ソナホーク

ナショナルのステレオラジカセ・シーダRX-CD70

ソニーのビデオデッキ・EDV-9000

ソニーのステレオラジカセ・ジルバップ

昭和62年に発売されたソニーのステレオラジカセ