【1000文字小説】傘を捨てる
終電間際のホームは、湿った空気と人いきれで腐った袋のようだった。誰もが自分のことで手いっぱいな顔をして、他人を押しのけることに何の罪悪感もない。こういう時間帯に働いている時点で、自分も同類なのだろう。そう思うだけで胸の奥がさらに重くなる。
会社では今日もやられた。ミスの責任を押し付けられ、上司には「お前は反省が足りない」と言い捨てられた。反省するのはそっちだろ、と喉まで出かかったが、飲み込むしかなかった。飲み込んだ言葉が胃の奥に沈殿して、ずっと気分が悪い。
地上に出ると土砂降りだった。天気予報の「降水確率10%」という呑気な数字が脳裏に浮かび、思わず笑いが漏れた。傘なし、濡れる覚悟もなし、疲れは限界。最低のコラボだ。
屋根の下に逃げ込んでタクシーアプリを開くと、「配車不可」の文字。周囲を見渡せば、どいつもこいつも無表情で傘を広げ、滴を他人に飛ばそうが気にしていない。街灯は濁った光を撒き散らし、道路は車の水しぶきで泥色に光る。世界全体が自分を雑に扱っているようだった。
屋根の下で肩を丸めていると、横から視線を感じた。
「よかったら、これ……」
ビニール傘を差し出す女性。濡れた前髪を耳にかけながら、こちらを少しだけ気まずそうに見ている。
「すごく濡れてたから……そのままだと風邪ひきますよ」
声はたしかに優しいのに、どこか落ち着きがない。スマホを握る指が細かく揺れている。誰かと連絡を取っていた途中か、あるいは何かを急いでいるのか。理由を聞く気にもなれず、傘を押し付けられるように受け取った。
持ち手には、水色のリボンが結ばれていた。妙に鮮やかで、夜の街に浮いて見えた。
女性は軽く会釈して走り去った。雨音に紛れていく足音を追いながら歩き出すと、背後で声がした。
「ちょっと、さっきの話……!」
振り返ると、女性が男に腕を掴まれていた。男はスーツ姿で、表情は怒気を帯びている。
「逃げるなよ。まだ話終わってないって言ってるだろ」
女性は静かに首を振った。「……もう無理なの」
その声だけが雨に溶けず、はっきりと届いた。
二人の距離は近いのに、温度はまるで感じられなかった。
傘を渡された理由が、ふと胸に落ちる。俺が濡れていたから、ではない。たぶん、ただ手放したかったのだ。何かの象徴みたいに。
見てはいけないものを見た気がして、顔をそらす。傘の骨が強風に煽られて軋む。リボンから青い染料が少し指先に滲んだ。
家に着く頃には、その青は雨で薄く伸びて、汚れなのか元の色なのか分からなくなっていた。玄関に入る前、傘をそっとゴミ箱に押し込んだ。
捨てる理由は、別に言葉にするまでもなかった。
ただ、持っていたくなかった。それだけだ。
雨はまだ、途切れる気配もなく落ち続いていた。