【1000文字小説】融け残る青
週末に降った雪は主要道路からはほとんど消えていたが、日陰のアスファルトや植え込みの影には、まだ固く凍った雪が残っていた。影の中に沈んだそれは、光の加減でほんのり青みを帯びて見えた。青白い塊を踏まないよう気をつけながら、僕はゆっくり歩く。冷たい風が頬をかすめ、吐く息が白く空気に溶けていった。
喫茶店「ラルゴ」に入り席につくと、窓の外のその青さが、静かな冷たさをそっと滲ませるようだった。店内には温かい空気とコーヒーの香りが漂い、かすかに流れるクラシック音楽が街の喧騒を遠くへ押しやる。木の椅子に腰を下ろした瞬間、背筋が少し緩んだ。
注文したブレンドコーヒーが運ばれてくる。湯気が立ちのぼり、指先をやさしく温める。窓の外では街路樹が風に揺れ、日陰の雪が淡く青みを返していた。
隣の席では、年配の女性が手帳に何か書き込んでいた。小さく息をついた音がして、次の瞬間、彼女のペンがカランと転がり、床に落ちた。反射的に僕は席を立ち、ペンを拾って渡す。「ありがとうございます」と、少し恥ずかしそうに笑う女性。その笑みにつられるように、僕の肩の力までふっと抜けていく。
自分の手帳を開くと、去年の今頃のページは予定でぎっしり埋まっていた。打ち合わせ、飲み会、締切……。何かに追われていなければ、自分は空っぽになってしまうように思っていた時期だ。
今年のページはまだほとんど空白で、その余白を見ると胸の奥に静かな余裕がゆっくり広がっていった。
カップに顔を近づけ、香りを吸い込む。指先の冷たさだけでなく、心の奥までじんわりと温まっていく。隣の女性がもう一度こちらを見て軽く会釈し、思わず僕も笑みを返した。ほんの些細な出来事が、今日という日の輪郭をくっきりさせていく。
ふと窓ガラスに映った自分と目が合った。以前より穏やかな表情になっていることに気づき、ゆっくり息を吐いた。コーヒーを口に含むと、苦味のあとに広がる深いコクが、今日という時間を確かに胸に沈めていく。
手帳に短く書き込む。「喫茶店でコーヒー。青い雪。ペンを拾った。」それだけの言葉でも、今日の証として十分だ。
外の雪はやがて消えるだろう。しかし、日陰に沈んだあの淡い青のように、今日の午後の記憶は僕の中でしばらく融け残る。香り、温かさ、窓の外の光、そして小さな笑顔──そんな色たちが、また世界をゆっくり満たしていく。一月下旬の静かな昼下がりだった。