【1000文字小説】また課長の仕業
薄曇りの朝、蛍光灯の光は冷たく白く、山崎の机だけをくぐもった影で包んでいた。胸の奥では、不安が小さな火種のように燻り続けている。今日が取引先への報告書提出期限だ。だが担当すると言ったのは課長だった──「これは私が進めておくから」あのとき課長は確かにそう言った。
午前十時すぎ、課長が硬い靴音を響かせながら近づいてきた。
「君、例の報告書はどうした?」
その声音には、すでに山崎を責める形が用意されていた。山崎はわずかに声を詰まらせながら答える。
「え? それは課長がやるとおっしゃってましたが…」
空気がきしむ。課長の眉が吊り上がり、薄い唇が横に引きつる。
「私はそんなことは言ってない。いったいどうする気だ。取引先は明朝の経営会議でこの資料を使う。今日中じゃなければ向こうが困るんだぞ」
言い捨てる声には、事実を塗り替えることへの罪悪感が一片もなかった。
課長が席へ戻ると、すぐ近くの島で小声が交わされた。
「……またかよ」「昨日も佐伯がやられたって言ってたな」
同僚の佐伯は、山崎と目が合うと気まずそうに視線をそらした。彼も以前、課長に「指示した覚えはない」と責任を押し付けられ、深夜まで残業していた。その記憶が佐伯の表情に影を落としていた。
山崎は喉の奥で何かが詰まり、呼吸が浅くなる。反論したい衝動が胸を押し上げた。「言いましたよね」と言い返せたらどれだけ楽か。しかし言葉にした瞬間、課長の怒声が飛び、さらに“問題児”の烙印を押される未来が脳裏に浮かぶ。ここでは、正しさより沈黙のほうが安全だ──いや、安全ですらない。ただ“まだまし”なだけだ。
「すぐ取り掛かります」と言おうとした頃には、課長はもう席に戻っていた。
「あぁ頼むよ。まったく、こういうのは自己管理の問題だろう」
吐き捨てるような言葉。隣の席の小田が、気の毒そうに山崎を見た。
「山崎さん……昨日、課長と話してたの、俺聞いてたんですけどね……」
言いかけて、小田は口を閉じた。
「すみません。巻き込まれたくないんで……」
その正直すぎる言葉が、かえって胸に刺さる。
山崎は席に戻り、震える指でキーボードに触れた。課長が放り出した作業を今日中に仕上げなければならない。胃の底に濁った黒い水が溜まり、体がゆっくり沈んでいくようだった。
窓の外の冬空は灰色で、雲が低く垂れ込めている。逃げ場はどこにもないように見えた。
それでも山崎は、息を殺しながらキーボードを叩き続けた。怒りも、悔しさも、声にならないまま、その暗い職場に吸い込まれていった。