【1000文字小説】冬の街灯
仕事帰り、シンイチはアパートへ続く道を歩いていた。
一月下旬の空気は鋭く、吐く息が白くゆらぐ。街路樹の枝には霜が光り、落ち葉の残りが凍りついた歩道をかすかに軋ませた。街灯の黄色い光が、薄い氷膜の張った路面を淡く照らしている。
アパートの手前、小さな公園がある。そこでブランコに女性が座っていた。
肩までの黒髪が冬の風に揺れ、ロングコートの裾が静かに波打つ。彼女の腕には、古びたテディベアが抱えられていた。
シンイチは一度、歩調を緩めた。
——大人がテディベアを抱いている。
一瞬、胸の奥でわずかな警戒が灯る。“もしかして地雷かもしれない”という、ごく自然な慎重さ。だが女性の動きは静かで、ただ耳を直しているだけだった。街灯の下、白い手袋を外した指先は落ち着いていて、奇妙さよりも、どこか切実さが勝って見えた。
シンイチは距離を取りつつ足を止め、少し迷ったあと声をかけた。
「こんばんは」
女性は驚いたように顔を上げた。だが、すぐに柔らかく会釈する。
「こんばんは。寒いですね」
「ええ……帰り道なんですけど、いつもより冷えますね」
シンイチは距離を詰めすぎないよう慎重に立ち位置を選ぶ。凍った歩道に置いた靴底から、きしむ音が静かに広がった。
彼の視線は自然とテディベアに向かう。
聞かないほうがいい話なのかもしれない。だが、彼女の手元の仕草は不安定ではなく、むしろ丁寧だった。
「その……テディベア、大事なものなんですね」
問いかけると、女性は胸元のベアを軽く抱きしめ、かすかに微笑んだ。
「はい。弟が小さい頃にくれたんです。もういないんですけど……家の整理をしていたら出てきて。持ってくるのも変ですよね」
そう言って、寒さに溶けるように苦笑した。
シンイチの胸の中で、先ほどの警戒が静かにほどける。
「変だとは……思いませんよ。大切なものなんですね」
言葉を選びながら答えると、女性は白い息をゆっくり吐いた。
「昔は、弟とこの公園でよく遊んでたんです」
その声は、凍った滑り台の階段を踏んだときに鳴る軋みよりも静かだった。
暗がりで揺れるブランコの鎖が、かすかにきしむ。
女性は立ち上がり、ベアを胸元に抱いたまま歩き出した。コートの裾が街灯の光を受けて揺れ、黒髪が風にほどける。
足元の凍った落ち葉が光を反射し、ブーツのかかとが控えめな音を夜に落とす。長く伸びた影が、滑り台の影と静かに重なった。
群青の空に冬の星が瞬き、遠くの街の灯りが霜を照らす。
街灯の光に浮かぶ公園の景色は、白い息と影がゆっくり溶け合う、冬の夜の静けさそのものだった。