【1000文字小説】死ぬまでここに

 上田は七十歳。長年、住宅遍歴を重ねてきたが、アパートこそが自分にとっての理想だと思っている。

「結婚してた頃はマンションも住んだけどな……静かすぎて、逆に落ち着かんかった」


持ち家か賃貸か、結論の出ない論争があるが、上田は断然賃貸派だ。何かあれば引っ越せる身軽さがいい。何よりこの年で持ち家もあるまい。離婚後、平家に住んだこともあるが、どうにも落ち着かない。元々子供の頃から集合住宅住まいだったので、一軒家には馴染みがなかったのだ。


アパートの2Kの小さな部屋に鍵を差し込み、ガチャリと開けると、なんとも言えぬ懐かしい匂いがする。少し古い、木のような香りと、誰かがここを愛用してきた気配が混ざった匂いだ。壁は薄く、隣のテレビの音や、奥さんの笑い声がほんの少しだけ聞こえる。普通ならうるさいと思うところだが、上田はそれが心地よい。


「隣に誰が住んどるか、なんとなく分かるのもええんや」


マンションの分厚い壁の向こう側では、生活音は遮断され、孤独が増すばかりだった。ここでは、ドタドタと足音が聞こえ、夜中の冷蔵庫の音や、笑い声が壁を伝って届く。無理に距離を取る必要もなく、かといって干渉されることもない、この微妙な距離感が上田には合っている。


窓の外を「バサッ」と何かが落ちていった。気になってテラスに出てみると、濡れた薄いピンクのバスタオルが落ちている。どうやら二階の住人が干している最中に落としたらしい。

ほどなくして階段を降りてくる足音がし、二階の奥さんが顔を出した。

「あっ、すみません! ここに落ちませんでした?」

「これやろ? はい、落ちとったで」

手渡すと、奥さんはホッとしたように頭を下げる。


駐車場が目の前というのも大きな魅力だ。買い物帰りに荷物を抱えてそれほど歩く必要もなく、車を停めてサッと部屋に入れる。小さなことだが、この便利さは七十年生きてきた身体に優しい。


上田は、隣の窓の向こうを眺めながら、今日も一人ほくそ笑む。「やっぱりアパートはええな」


風に乗って、子どもたちの笑い声や、犬の吠える声が聞こえる。静かすぎる生活は味気ない。少し雑多で、少し騒がしい、この場所こそが上田の居場所なのだ。この景色が嫌になれば、引っ越せばいいだけだ。


「静けさより、ちょっとした喧噪やな。これが生活や」

上田はキッチンに腰を下ろし、湯を沸かす。外から聞こえる生活音と、駐車場に停まった車のドアの音、そして隣から聞こえる笑い声。それらすべてが、上田の心を満たす。


わずかに笑みを浮かべた上田。残りの日々が短くとも、ここで過ごす毎日が、人生の中でいちばん心地よいものになる──そう、静かに思った。


<1000文字小説目次>

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