【1000文字小説】当て所ない六日目
新婚旅行六日目。
朝、沙耶はぼんやりと天井を見上げていた。窓の外から差し込む光が柔らかく、まだ眠る身体にそっと触れてくる。智也はすでに起きていて、静かな声で言った。
「今日は……市場、行ってみない?」
目的のない誘い。その曖昧さが、むしろ嬉しかった。
市場は生活の匂いで満ちていた。甘い果物の香り、乾いたスパイスの粉が風に舞う匂い、焼き菓子の香ばしい香り。ファーランド特有の“風鈴草”という青緑の花が屋台に吊るされ、風が鳴らす澄んだ音が通りを満たしている。
沙耶はその音に足を止め、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
――忙しく生きてきた数年分の時間が、音と一緒にほどけていくみたい。
「これ、好き?」
智也が差し出したのは、水色の陶器。釉薬には“湖光の焼き”というこの国独特の技法が使われているらしく、光の角度で深い青が揺れて見える。
「蒼鏡湖みたいだね」
そう言うと、智也は少し照れたように微笑んだ。
「……こういうの選ぶとき、沙耶の顔が浮かぶんだよ」
胸の奥が一瞬だけ熱くなる。
――ああ、こういう言葉を、私はいつの間にか求めなくなっていたんだ。
日常に慣れ、忙しさに飲まれ、“特別”を諦めかけていたのは自分だった。
ふたりは市場の端にあるベンチに腰を下ろした。屋台で買った果物を分け合いながら、沙耶は智也の横顔を盗み見る。優しい光の中で、彼は観光地で見たどの景色よりも穏やかだった。
「ねえ……」
言葉が喉で揺れ、沙耶は続けた。
「こういう時間、私すごく好き。観光より、ずっと」
智也は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと頷いた。
「俺も。なんか……“ふたりの未来”が少し見える気がする」
夕方、ホテルのプールサイド。風鈴草の音が遠くから聞こえ、椰子の影が水面に揺れている。
沙耶はこの旅で初めて、「帰りたくない」ではなく、「ここで感じたものを持ち帰りたい」と思った。
空が桃色に染まる頃、智也がぽつりと言った。
「来年もさ、どこかで“何もしない日”つくろうな。今日みたいに、余白で心が満ちる日」
沙耶は本を閉じ、彼の肩にもたれた。
「うん……約束。私、こういう時間を大事にする」
その言葉は、旅のどんな景色より深く、静かに沙耶の心へ刻まれた。