【1000文字小説】古い街角の欠片
一月下旬、仕事が思いのほか早く片づいた。連日の会議と報告書に追われ、肩は凝り、頭の奥はぼんやりと霞んでいる。メールを送信し終えると、胸の奥にぽっかり隙間ができた。せっかくだ、少し歩いてみよう――小学二年まで暮らした町を。
十数年分の記憶の埃を払うように、駅前のロータリーへ出た。冷たい風がスーツの隙間に入り込む。昔はもっと賑やかだった気がするのに、目の前の商店街は妙に縮んで見えた。子どもの頃、母と手をつなぎ歩いた商店街は、記憶の中ほど広くはなかった。惣菜屋の赤いテントは褪せ、看板は剥がれかけている。コロッケを二つ買って帰ると必ず一つは潰してしまう癖――あのどうでもいい記憶がふいに蘇った。あの頃と今とでは、自分の背丈だけでなく、世界の重みも変わった気がする。
いわゆるシャッター街で半分以上が営業していない。そんな中よく続いているなと感心した店がある。ガラスが斜めに張られた古い写真館。店先の金属フレームは錆びていたが、あの頃と同じ。七五三の写真を撮ったとき、緊張してまぶたが震えて仕方なかった。母が「大丈夫よ」と肩を叩いた感触が、身体の奥で鮮やかに蘇る。
路地へと入る。自分が住んでいた借家のあった場所へ向かう足取りは、なぜか少し早くなる。あの家には冬になると石油ストーブの匂いが染みついていた。朝、ストーブの前で靴下を温めていたら焦がしてしまい、父に笑われた――そんな断片だけが鮮やかだ。
だが、角を曲がった先には見知らぬ光景が広がっていた。新しいアパートと整った駐車場。家の影も形もない。立ち止まると、足元に小さなコンクリ片が転がっていた。もしかしたら昔の基礎の欠片かもしれない。手に取ってみようかと思ったが、結局やめた。記憶と現実を線でつなぐには、あまりにも小さすぎた。
小学校へ続く並木道は変わらず残っていた。枝だけの桜が冬空を切り分けるように伸びている。ここを歩いていたはずの同級生の顔は、ひとりとして浮かばない。サッカーが得意だったやつ、ランドセルにシールをたくさん貼っていた子……輪郭はかすむばかりで、もはや実在すら疑わしい。それでも当時の自分は、毎日この道を確かに歩いていたはずだ。
「もし会っても、お互い気づかないんだろうな」
つぶやくと白い息が広がった。その向こうにあるのは、変わってしまった町と、変わらずに忘れていく記憶。そして、ここにはもういないはずの幼い自分だ。
帰り道、駅のアナウンスが風に乗って聞こえてきたとき、ようやく胸の奥の空洞が形を持った気がした。
――変わったのは町だけじゃない。
「まあ、そんなものか」
つぶやきながら歩く自分の背中に、過去の自分がそっと重なる気がした。