【1000文字小説】孤独な予約
会社を出ると、駅前の騒音が耳に飛び込んできた。酔ったサラリーマンの笑い声、工事のドリル音、誰かの電話越しの怒鳴り声。そのすべてが胸に重くのしかかる。三年付き合った恋人は、職場の後輩と付き合い始め、あっさりと去った。いまだに廊下でその後輩を見かけると、胃のあたりがひやりと痛む。
信号待ちの人混みの中、紗良だけ時間が止まったようだった。ふと横を見ると、女子高生が泣きながら友達に慰められていた。羨ましい、と一瞬思う。泣く相手がいることが。
アパートに戻る途中、コンビニのガラスへ映った自分の姿にぎょっとした。思った以上に疲れた顔をしている。コーヒーを買おうとしたが、レジ横の揚げ物の油の匂いが胸につかえて、そのまま店を出た。
部屋は相変わらず散らかっていた。出しっぱなしの請求書、しなびた野菜、床に落ちた髪。片付けようと手を伸ばしても、すぐに力が抜けた。
テーブルに置かれた段ボールを開けると、母が送ってきた古いイタリアの写真集。「気分転換にどこか行ったら」というメモ。なんでみんな、簡単に“行けば変わる”なんて言えるんだろう。そんな気持ちがふつふつと湧いた。
テレビをつけると、地中海の旅番組が始まった。明るい海辺の映像。観光客たちの笑う声。その背後でキッチンの換気扇が重く唸り、紗良の部屋の暗さを際立たせる。
「あんなとこ、私が行って何になるの」
呟いてリモコンを投げるように置いたが、目はなぜか画面に戻った。
気づくと、パソコンで「イタリア 一人旅」と検索していた。ローマ行き航空券、往復十万円。画面の青いボタンが、妙に強く光って見えた。
買う理由もないけど、買わない理由にも疲れていた。
窓の外で雪が舞い、時折、通りを走る車のヘッドライトが壁に揺れる。その光がぼんやりと部屋を照らすたび、心臓の鼓動が不規則になった。
マウスを握る手が汗ばむ。カーソルを「予約する」の上に置くと、手が震えて動かなくなった。
押したら変わらなくてはいけない気がして怖い。
押さなかったら、このまま腐っていく気がしてもっと怖い。
呼吸が浅くなる。喉がつまる。目の奥が熱くなる。
「……あーもう」
声にならない声が漏れた瞬間、紗良は勢いでマウスを押した。
クリック音が部屋にやけに大きく響いた。
「予約完了」と表示される。心のどこかが少しだけ波打ったが、すぐに静かになった。
期待は、やっぱりなかった。
ただ、押す前の自分より、ひどくみっともない姿を少しだけ嫌った――
その気持ちだけが、確かに残った。