【1000文字小説】月の落ちる街
古い石畳の坂道を夕日がゆっくりと染めていた。喫茶店「月兎」の看板が風に揺れ、小さな金属音が空気に溶ける。この街に越してきて三週間、僕はここを訪れるのが習慣になっていた。どこか時間の流れが遅いようで、息をつく余裕が生まれる場所だった。
店に入り、いつもの席に腰を下ろす。マスターは新聞を畳まず、「いらっしゃい」と低く言うだけ。だがこの素っ気なさが心地よい。
コーヒーを待ちながら、ふと窓の外の風景に違和感を覚えた。夕暮れの光が橙から青へ変わる境目に、街灯が早くも灯り始めている。その灯りが妙に頼りなく見えた。
湯気の立つブレンドが運ばれた頃、外を一台の自転車が通り過ぎた。荷台には白布に包まれた丸い荷物。昨日も見た気がする。胸の奥で小さな不安が揺れた。
「最近、ああいうの運ぶ人、多くないですか?」
僕が尋ねると、マスターは新聞を閉じて頷いた。
「月の欠片だよ。まだ乾いていないやつだ」
冗談に聞こえたが、彼の口調は妙に真剣だった。
その瞬間、窓の外がざわめいた。人々が空を見上げ、声がひそひそと重なっていく。胸がざわつき、僕も店を飛び出した。
空には、巨大な月があった。普段の何倍も近い。欠けた縁の暗い影までもが手に取るように見え、冷たい光が街を覆っていく。息が止まるほど美しいのに、背筋が粟立った。落ちてくるのではという恐怖と、ただ見ていたいという矛盾した感情が同時に押し寄せる。
隣に来たマスターが言った。
「落ちはしないさ。あれは、機嫌を損ねると寄ってくるだけだ」
その言葉は冗談にも聞こえず、不可解な説得力を持っていた。思えばこの街の夜空はいつも異様に澄んでいた。初めて来た晩、月の輪郭が揺れて見えたのも気のせいではなかったのかもしれない。
月はしばらく静止したまま街を見下ろしていた。人々は誰も動かず、時間までもがどこかへ行ってしまったようだった。やがて、何かに納得したように、ゆっくりと元の高さへ昇り始めた。
光が薄れ、街に夜が戻る。ざわめきが解け、誰かが震える声で笑った。僕の手は少し汗ばんでいた。
「……本当に、不思議な街ですね」
「だろう?」マスターはにやりと笑った。「常識の外で息をしてるんだよ、ここは」
冷めたコーヒーを飲み干して店を出ると、空は静かに星を瞬かせていた。だが、僕にはもう普通の夜空には見えなかった。白い布に包まれた荷物の正体も、この街の秘密のほんの一片にすぎないのだろう。
坂道を下りながら、僕は胸の奥に残る月の残像を確かめるように息をついた。また明日も、この街は何事もなかった顔で朝を迎えるのだろう。だが僕は、もうその平穏をただの平穏とは思えなかった。