【1000文字小説】思い出せない
静かな雨音が、木造アパートの薄い屋根を叩いていた。
片付けをしていると、一番下の箱から、交換日記が出てきた。
表紙に「シンヤ」「ミナミ」とある。拙い字だ。当時の自分の字がこれほど幼いのかと、少しだけ驚いた。
ページをめくると、中学二年の他愛ないやり取りが並んでいる。テストの点、部活、昼休みのどうでもいい話。その中に「今日のシンヤ、疲れてた」というミナミの文字があった。
へえ、と小さく声が漏れた。
ミナミのことは、別に特別だったわけではない。
よく笑う子で、人の話によく頷いてた。思い返せば、誰かに必要以上に気を配るタイプだったのかもしれない。
卒業の頃に何か言われた気もするが、内容はもう覚えていない。
雨音が単調に続く中、なんとなくスマホを手にした。
検索窓に名前を入れると、似たような人がいくつも出てくる。ぼんやり眺めていると、一つのアカウントの写真で記憶と一致する輪郭を見つけた。
笑っている。昔と同じかは知らない。
プロフィール欄には「保育士」
そういえば子どもが好きだったような気がする。
メッセージを送るつもりは最初からなかった。
連絡しても、会話が成立する気がしない。二十年前の断片を持ち出されても、彼女も迷惑だろう。誰かの生活に唐突に割り込むほど、こちらの人生も切迫してはいない。
スマホを伏せる。画面の光が消え、雨音だけが残る。
雨が弱まり、外が少しだけ明るくなった。
玄関を開ける。冷たい空気が流れ込む。
過去に触れても、別に何も変わらない。
そんなものだろうと思い、傘も差さずに歩き出した。
数歩進んだところで、ふと気づいた。
――ミナミの声だけは、思い出そうとしても出てこなかった。
不思議でもなく、惜しいとも思わない。ただ、消えるときはこういうものか、とだけ思った。
胸に空いたその空白に、雨音がすっと染み込んでいく。