【1000文字小説】路地裏の忘れ物係

 帰り道の角を曲がった瞬間、古びた路地裏に小さな看板が揺れているのを見つけた。「忘れ物係」とだけ書かれた歪んだ手書き文字。錆びた郵便受けがその下に沈むように置かれている。

立ち止まったとき、風が一瞬だけ止んだ。まるで僕がここに来るのを待っていたかのように。

——最近、何かを置き去りにしたまま生きている気がしていた僕は、その静けさに妙に胸をつかまれた。


次の日、郵便受けを覗くと、古いブリキの缶が一つ入っていた。蓋は少し歪んでいて、開けると油の匂いが微かに漂った。中には、光を当てると深い緑や琥珀色に輝くビー玉が五つ。

添えられたメモには、ぎこちない文字でこう書かれていた。

「昔、宝物だったものです。今はもう必要ないので、誰かが見つけてくれると嬉しいです」


その日から、僕は毎日「忘れ物係」を訪れるようになった。

ある日は片方だけの白い手袋。湿ったような冷たさが掌に残り、冬の匂いを思い出させた。

またある日は使い古された万年筆。キャップを外すと、古いインクの甘い金属臭がふっと立ち上がった。

そしてある日、止まったまま時間を抱え込んだ懐中時計が置かれていた。手に乗せると金属の重みが、生き物の鼓動のようにじんと伝わってきた。


そんな小さな記憶の断片に触れるたび、胸の奥が静かに温かくなる。

誰が置いたのか、何のために手放したのか——その答えはいつも霧のように掴めない。

それでも僕は、曖昧なままのその気配を嫌だと思わなかった。


ある雨の日、小さなカセットテープを見つけた。薄いプラスチックが濡れた光を反射していた。メモには「僕の歌」とだけある。

家に帰り、古びたラジカセに入れると、音程の外れた、息を吸い込むタイミングさえぎこちない歌声が流れた。

けれど、その拙さの奥にある必死さが、不意に僕の胸を締めつけた。

——こんなふうに自分の声を残そうとした誰かがいた。かつての僕も、誰かに届くと思った言葉を、言えないまま置き忘れたことがあった。


忘れ物は、ただの物ではなかった。

置く人の思い出であり、拾う人の物語のきっかけだった。


僕はビー玉を窓辺に、万年筆を机に、手袋を玄関に飾った。

それらは、色褪せつつあった僕の日常に、静かで確かな色を加えていった。


ある夜、郵便受けを覗くと、何も入っていなかった。

ひんやりした空気が流れ込んできて、少しだけ胸がすくような寂しさを覚えた。

けれど不思議と、心の奥にはやわらかな灯が残っていた。

——もしこれを見つける前の僕なら、「もう終わりか」と思っただろう。

だが今は違う。世界には、僕の知らないだけでまだまだ素敵な物語が溢れているのだと、静かに信じられた。


また誰かの忘れ物が、誰かにとっての「見つけ物」になる日が来る。

僕はその日をゆっくりと楽しみにしながら、路地裏を後にした。


<1000文字小説目次>

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