【1000文字小説】灰色の温度
十一月の朝、室内は息がうっすら白むほど冷えていた。 節子は台所でやかんに水を満たし、ガス台の火をつける。青い炎が立ち上がり、底を熱する小さな音が響く。お茶を淹れて一口飲むことで、ようやく身体の輪郭がはっきりとしてくる。
夫を亡くして五年。娘たちは遠くで暮らし、この家で一度も声を出すことなく一日が終わることも珍しくない。
午後は駅前のスーパーで働く。担当は惣菜コーナーの裏方と補充だ。奥の調理場から運ばれてくる揚げ物をパックに詰め、ラベルを貼り、売り場へ並べる。揚げ物の油と殺菌剤の匂いが混ざり合う空間で、黙々と手を動かす。
「これ、いくらですか」
バックヤードからパックを抱えて出てきたとき、見知らぬ小柄な男に声をかけられた。くたびれたコートを着た年配の男だ。 節子がパックのラベルを指さして「二百八十円です」と伝えると、男は「ああ」とだけ言い、ポケットから出そうとした手の手のひらを向けた。その指先が、寒さからか酷く震えているのが目に入る。爪のまわりが白く乾燥し、皺の深い指だった。
男は震える指先で何度もコートのポケットを探り、ようやく取り出した小銭を握りしめたまま、レジの方へ力なく歩いて行った。
仕事を終えて外へ出ると、四時過ぎだというのに空はすっかり暗くなっていた。 自転車のハンドルを握る手袋の指先が擦り切れている。買い換えようと思いながら、そのまま冬を迎えようとしていた。
部屋に戻り、部屋の隅に置いた灯油ストーブのスイッチを入れる。ボッと音を立てて芯に火がつくが、灯油の残量ランプが赤く点滅した。節子は玄関脇の物置から重いポリタンクを引き出し、手動の給油ポンプを使ってストーブのタンクへ灯油を移す。ペコペコと赤いたみだれが鳴り、灯油独特の匂いが立ち込める。
ベランダへ出て手すりに手を置くと、十一月の風が落ち葉の乾いた匂いを運んできた。向かいのアパートの窓には、次々と明かりが灯っていく。
部屋へ戻り、買ってきた惣菜で一人分の夕食を済ませる。 お茶を飲みながら、昼間に出会った男の指先を思い返す。コートのポケットを探っていたあの微妙な震えの残像が、自分の指先にまで残っているような気がした。
使い終えた食器を水で洗う。冷たさに指が痺れていく感覚を確かめながら、節子は静かに夜の深まりを待っていた。
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