時夫の通っている大学があるS市まではこれから丁度一時間かかる。いつもなら別段立って行く事も苦にしないのだが、今日は徹夜でレポートを作成していた為、腰掛けて眠っていきたかったのだ。
時夫は隣の車両に移り、そこでようやく空席を見つける事が出来た。が、そこがシルバーシートであった為、時夫は座ることを一瞬躊躇った。時夫は普段、立っている人間がいなくても、若くて健康な自分がシルバーシートに座る事を遠慮していた。時夫が遠慮したとしても、他の客ですぐに埋まってしまうのだが。
しかしこのまま立っていられない程に眠かった時夫は、決意したようにそこに腰を下ろした。するとそれを待ち構えていたかのように、たちまち眠りへと引きずり込まれた……。
時夫は大学を六年かかって卒業し、食品会社に営業職で入社。
三回ほど転勤した後に三十歳で結婚。妻は四つ年下で、同じ会社で経理の仕事をしていた。二年後に元気な女の子が生まれた。
その後五回の転勤があったが、単身赴任は一度もしなかった。
東京本社の営業部長になったところで定年となり退社。
娘は短大を卒業した後一年して嫁に行き、二年後にはかわいらしい女の子、時夫にとって初孫も出来た。
時夫は現在妻との二人暮らし。悠々自適の身である……
どこかの駅に止まったらしいその振動で時夫は目を覚ました。腕時計に目をやると、まだほんの十分程度しかたっていなかった。その間に自分の生涯の夢を見ていたらしい。まるで邯鄲の夢だな、と時夫は思った。
ふと気がつくと時夫から少し離れたところに女性が一人吊革につかまっている。妊婦だった。
時夫の周りの人間はみな新聞や本を読んでいたり、居眠りをしていて誰も席を譲ろうとはしない。皆時夫と同じような学生や若いサラリーマンばかりなのに。
そこで時夫は席を譲ろうとして立ちあがった。だが徹夜の疲れだろうか、体が妙に重かった。
「どうぞ座って下さい」と時夫はその女性に声を掛けたのだが、自分の声が妙にしわがれているのに驚いた。
時夫を見たその女性は慌てて言った。
「あら、いいんですよ、私は次で降りますから。座ってて下さいよ。おじいさん」
(1998/10/02/勝ち抜き小説合戦応募 文字数:990)
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