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【1000文字小説】秋の角度

 押し入れの奥からプラスチックケースを引き出し、畳んであった長袖のシャツを四枚取り出した。どれも首元や袖口がわずかに黄ばんでいる。そのまま洗濯機へ放り込んで回し、洗い上がったものをハンガーに掛け、ベランダへ並べた。十月の風は冷たく、並んだシャツの裾を淡々と揺らしていた。 勤め先のスーパーマーケットまでは歩いて十五分かかる。国道沿いの舗装路は、夏のあいだに膨らんだアスファルトの継ぎ目がそのまま固まり、小さな波のようにうねっていた。右足のつま先が、その突起にわずかにかすれる。 「津島さん、これ、奥の棚に運んでもらえますか」 t二十代の社員が、キャスター付きの台車を指さした。段ボール箱を持ち上げると、両腕の筋が強張り、口から小さく息が漏れた。棚にペットボトルの茶を一本ずつ並べていく。冷えたプラスチックに触れ続けた指先が、徐々に感覚を失っていくのを感じていた。 退店時間になり、タイムカードを通してエプロンをたたんだ。従業員用の裏口から外へ出ると、扉の横に潰されたダンボールが小さく山になっていた。その陰に、黒と白の混ざった猫が丸くなっている。近づくと、耳の先端だけがぴくりとこちらへ向いた。 家に戻ると、斜めに入り込んだ日差しが畳の目を際立たせていた。 そのままベランダへ出て、干したシャツを取り込む。生地はすっかり乾き、ひんやりとしていた。四枚を端から丁寧に重ねて折りたたみ、タンスの引き出しへ収めた。 台所で湯を沸かす。ガスコンロの青い炎が、シュと低い音を立てて円を描いた。急須から自分の湯呑みにお茶を注ぐ。 スマートフォンを指で撫でると、画面に届いた孫の写真が映る。画面を消すと、黒いガラスに自分の指紋と、皺の寄った自分の顔がぼんやりと映り込んだ。 湯呑みを両手で包むように持ち、ベランダへ出る。 遠くで、電車の踏切が鳴り始める。 カン、カン, カンと、正確な間隔で刻まれる金属音。それは街の時間を等分するように響き、やがて途切れた。 あたたかい陶器の重みを両手に感じながら、西の空を見た。高いビルの隙間に沈んでいく太陽は、夏の頃よりもずっと浅い角度で、静かに光を減らしていた。 リンク

【1000文字小説】ゴッサマー

 日曜日の朝、妻は台所で洗った食器を拭いていた。私は食卓でコーヒーを飲みながら、スマートフォンの画面を眺めていた。息子からのメッセージは、仕事が忙しいという短いものだった。娘のほうは、先週送った写真に親指の絵文字を返してきただけだった。 子供たちが家を出てから、日曜日はずいぶん長くなった。以前は午前中のうちに誰かが何かを探し、誰かが出かける時間を気にし、洗面所の扉が何度も開いた。今は時計の秒針が、部屋の奥まで聞こえる。 息子には仕事のことを尋ねようと思い、娘には写真に写っていた店の名前を聞こうと思っていた。どちらも、今でなくてもよかった。画面を閉じると、黒いガラスに自分の顔が映った。 午後、近所の公園まで歩いた。 ベンチに座ると、小さな子供が目の前を走っていった。母親がその後ろを歩きながら、何度も名前を呼んでいた。息子が小さかった頃、私もあんなふうに名前を呼んでいた。運動会の朝、靴ひもを結び直すよう急かしたことを思い出した。あのとき息子は、返事をせずに走っていった。 帰り道、街路樹の枝に白いものが絡んでいるのを見つけた。蜘蛛の糸だった。陽の当たる角度によって、見えたり消えたりした。 立ち止まっていると、通り過ぎた自転車の風で、それはゆっくりほどけた。切れたのか、枝から離れたのか、よくわからなかった。細い糸はしばらく空中にとどまり、それから、どこへ行くともなく流れていった。 家に戻ると、妻は夕食の支度をしていた。 「公園に、小さい子がいてさ」 そこまで言って、私は言葉を止めた。子供が走っていたことも、母親が名前を呼んでいたことも、妻に話すほどのことではないように思えた。 「どうしたの?」 「いや、別に」 妻は包丁を動かし続けた。私はテーブルの上に置かれた新聞を開いた。 夕食のあと、息子からまたメッセージが届いた。来月は帰れそうにないという。私は「わかった」と打ち、少し考えてから「仕事、無理するなよ」と続けた。読み返すと、どちらも父親らしい言葉に見えた。送信した。 窓の外は暗くなっていた。昼間の糸を思い出した。ゴッサマー。以前、どこかで目にした言葉だった。 台所から妻が、明日の天気を尋ねてきた。 私はすぐには答えず、スマートフォンを伏せた。 リンク

【1000文字小説】増えていくもの

  園芸店に入ると、入口の脇にポインセチアが並んでいた。赤い葉を見ると、クリスマスはまだ先なのにと思った。値札を見ると、去年より高い気がした。  私は奥の観葉植物の棚へ進んだ。  ポトス、パキラ、モンステラ。知っている名前を目で追いながら、私は棚の間を歩いた。家にもポトスがある。何年も前に買ったもので、伸びた蔓を切っては水に挿し、根が出ると別の鉢に植えてきた。今では、どの鉢が最初の株から増えたものなのか分からない。  新しい鉢を買おうと思ったのは、先週、居間の模様替えをしたからだった。ソファを壁際に寄せ、空いた場所に小さなテーブルを置いた。雑誌で見た部屋に少し似ていたが、二日もすると、何かが足りないような気がしてきた。  夫に話すと、好きなものを置けばいいと言った。テレビを見ながらだったので、こちらを向かなかった。私はそれ以上、話さなかった。  棚の下段に、丸い葉をつけた植物があった。葉は肉厚で、縁が少し赤みを帯びている。名札には「ペペロミア」と書かれていた。私はその名前を声に出さずに読んだ。覚えられそうな名前だったが、店を出るころには忘れているかもしれない。  鉢を持ち上げると、思ったより軽かった。葉の一枚に小さな傷があり、その周りだけ色が薄くなっていた。私は傷のある葉を裏返した。裏側には、表からは見えなかった細い筋が何本も走っていた。  隣の鉢は、葉の形も大きさもよく似ていた。こちらのほうが傷が少なく、全体に整っている。私は二つを交互に持ち上げたあと、最初の鉢を買い物かごに入れた。選んだ理由は、うまく説明できなかった。  レジで店員が、育て方の紙をつけますか、と尋ねてきた。私は頷いた。紙には、直射日光を避け、土が乾いてから水を与えること、とあった。水をやりすぎると根腐れする、とも書かれていた。いつもやっていることだった。  帰り道、私は箱を両手で抱えて歩いた。中で鉢が動かないよう、歩幅を小さくした。風は冷たくなっていた。歩道の隅に、乾いた葉が集まっていた。  新しい鉢を居間のテーブルに置き、少し離れて眺めた。そこに置くつもりだったのに、実際に置いてみると、テーブルの上が狭くなった気がした。鉢を端に寄せ、また中央に戻した。  窓辺のポトスは、長く伸びた蔓をカーテンに絡ませていた。外そうとすると、葉が一枚、私の手の甲に触れた。私は蔓をほどき、鉢の縁に沿わせた...

【1000文字小説】車を走らせる

十月の午後、免許を取ってから初めて、一人で車を出した。 父に買ってもらった、背の高い軽自動車だった。これまで運転するときは、いつも父が助手席にいた。今日はその席が空いている。 家の前の道を出る。交差点を曲がる。信号で止まる。 思っていたより、普通にできた。 助手席の父は、右折の前には「急がなくていい」と言い、駐車するときには黙って窓の外を見ていた。私が少し斜めに停めても、最後には「まあ、いいんじゃない」と言った。 今日はその父がいない。 ナビの音声が、次の交差点を知らせる。 父よりも正確だった。 私はその指示に従って曲がった。 川沿いの道に出る。十月の風で街路樹の葉が揺れていた。赤信号で停まる。 いつもなら、このあたりで父が窓を少し開ける。 今日はそのままだった。 青になり、アクセルを踏む。 目的地の駐車場に着いた。 枠の中に車を入れる。少し右に寄ったので、入れ直した。今度はまっすぐだった。 スマートフォンに父からメッセージが届いた。 〈着いた?〉 「着いたよ」と返してから、車を降りた。 ドアを閉める前に、助手席を見る。 何もない。 十月の光が、シートの上に薄く落ちていた。 リンク

【1000文字小説】金木犀

 十月の半ばから、帰り道に少し遠回りをするようになった。 学校が終わると、そのままコンビニへ行く。五時から九時までレジに立って、バーコードを読んだり、弁当を温めたりする。忙しい時間が終わると、店内の音が少しずつ減っていく気がする。 九時になって上がると、裏口から外へ出る。 住宅街を抜ける道には古い家が何軒か並んでいて、角を曲がったところに金木犀の木がある。 夜、そこを通ると、いつも匂いがした。 ある日、いつもの場所まで来ると、金木犀の枝が切られていた。 家の前に脚立が置かれ、落ちた枝が束ねられていた。 僕は立ち止まった。 匂いがしなかった。 しばらくして、歩き出した。 次の日も、同じ道を通った。 切られた枝はなくなっていて、家の前は何もなかったようになっていた。 僕は足を止めなかった。 九時を少し過ぎていた。 コンビニを出てから駅まで歩く途中、何度か後ろを振り返った。 誰かがいるわけではなかった。 ただ、いつもの道が、前より少し長く感じられた。 駅の明かりが見えた。 僕はスマートフォンを取り出して時間を確認した。 九時二十三分。 そのままポケットに戻し、歩いた。 リンク

【1000文字小説】たまる水

 九月に入ってから、雨の降らない日がなかった。 朝食の片付けを終え、洗濯機を回した。窓の外では、細い雨がベランダの手すりを濡らしている。 夫は出かける前に、「今日も降ってるな」と言った。 「うん」 それだけだった。 脱水の終わる音がして、私は洗濯物を部屋の中に干した。シャツの袖が少し重い。除湿機をつけると、低い音が部屋の隅から聞こえ始めた。 結婚して三年になる。 三年という時間を、私は最近よく考える。長いのか短いのか分からない。去年の九月にも雨が多かったことは覚えている。でも、そのとき何をしていたかは、あまり思い出せない。 昼前、夫からメッセージが届いた。 《帰り、何か買ってくる?》 冷蔵庫には夕食に使えるものが残っていた。 《大丈夫。雨ひどそうだから》 そう返して、スマートフォンを伏せた。 午後になっても雨は止まなかった。 私は読みかけの本を開いた。数ページ読んだところで、同じ行を三度読んでいることに気づいた。 本を閉じる。 部屋の中には、除湿機の音と雨の音があった。 夕方、夫が帰ってきた。 「ただいま」 「おかえり」 濡れた傘を玄関の隅に立てる音がした。 私は台所で味噌汁を温めた。 窓の外は暗くなっていた。 雨はまだ降っていた。 除湿機の水が、いつの間にかいっぱいになっていた。 リンク

【1000文字小説】針先

 九月の雨が、朝から降っている。 男は七時に起き、珈琲を淹れた。パンを焼き、目玉焼きを作る。食べ終えると、食器を洗ってからレコード棚の前に立った。 何十枚もある。 しばらく眺めて、いつもの一枚を抜いた。ジャケットを裏返し、曲目を確かめる。針を落とす。 男は椅子に座り、目を閉じた。 一曲目が終わるころには、窓の外が少し明るくなっていた。 雨は止まなかった。 昼は近所の蕎麦屋へ行くつもりだったが、出かける頃になって雨脚が強くなったので、やめた。 冷蔵庫を開ける。 豆腐と卵、それから昨日買った葱がある。 鍋に湯を沸かし、豆腐を入れた。卵を落とし、葱を刻む。 食べながら、午後は釣り道具を手入れしようと思った。 食器を片づけ、押し入れから道具箱を出した。 竿を伸ばし、糸を確かめる。古いリールには細かな傷がいくつもついていた。指で触れると、釣りに行った日のことがいくつか浮かんだ。 どの日のことだったかは、もう区別がつかない。 糸を巻き直し、針を新しいものに替える。 夕方になった。 風呂を沸かし、湯に浸かる。 上がると、またレコードをかけた。 朝と同じ一枚だった。 ウイスキーを少しだけ注ぐ。 誰かと飲むことを考えたことは、ほとんどなかった。 男はそう思ってから、なぜそんなことを考えたのか分からなくなった。 雨の音がしている。 レコードの音もしている。 男はグラスを手にしたまま、窓の外を見た。 暗くなったガラスに、自分の姿が映っていた。 しばらく見ていると、向こう側の雨と自分の姿の境目が分からなくなった。 男はカーテンを閉めた。 レコードはまだ終わっていなかった。 リンク

【1000文字小説】向かい側

 九月に入ってから、雨の降らない日はなかった。 朝、目を覚ますと、窓の向こうが白く濡れている。カーテンを開ける前から、それがわかるようになった。雨の音は、眠っているあいだにも部屋の中まで入り込んでくる。 実家を処分したとき、いくつかのものを持ち帰った。食器や古い写真、それから母の湯呑みと父の湯呑み。 食器棚には、二つ並べてある。 私は母のものを使っている。 雨が強くなると、窓を閉める。鍵を確かめる。ベランダの排水口を見る。何度見ても、水が増える速さは変わらない。 テレビをつけると、川の水位を知らせている。 私は音を小さくする。 画面の中の数字が、はっきり見えた。 夕方、買い物から戻る。 玄関で傘をたたんでいると、廊下の向こうで子どもの声がした。母親らしい声が、それを追いかけている。 私は靴を脱いだ。 部屋の中は暗かった。 明かりをつけると、食器棚の湯呑みが目に入った。 母が生きていた頃、雨の日には電話がかかってきた。 「そっちは大丈夫?」 いつも同じだった。 私は大丈夫だと答えた。 母が亡くなってから、雨の日の電話はなくなった。 当然のことなのに、ときどき雨が降ると、電話の鳴る気配だけが残っているように思う。 夜になって、雨脚がさらに強くなった。 窓ガラスに水が叩きつけられている。 私は布団に入った。 眠れなかった。 水の音を聞いていると、自分のいる場所が少しずつ低くなっていくような気がした。 午前二時を過ぎた頃、雨が一度、弱くなった。 私は起き上がった。 暗い部屋で、台所まで歩いた。 食器棚を開ける。 母の湯呑みは、いつもの場所にある。 その隣の父の湯呑みに手を伸ばした。 指先に、わずかな湿り気が残った。 しばらく、そのまま触れていた。 それから、父の湯呑みを取り出した。 水を入れることもなく、テーブルの向かい側に置いた。 雨は、まだ降っていた。 リンク

【1000文字小説】薄い水

 九月に入っても、空気の底に生ぬるい塊が沈んでいた。 午後三時のオフィスは、薄水色のカーペットが敷き詰められている。エアコンの風が首筋を撫でるたび、皮膚の表面だけがちくちくと冷え、奥のほうが熱を溜め込んでいた。 指先をキーボードに乗せたまま、画面の数字を見つめる。数字はただそこに並んでいるだけで、意味を持った列としては胸に落ちてこない。喉の奥がカラカラに乾いていた。デスクの隅に置いたステンレスボトルを傾ける。中身は今朝淹れた麦茶だったが、氷はとうに溶け切り、生ぬるく薄まった液体が舌を滑るだけだった。 「佐伯さん、これ、今日の分」 隣の席の課長が、受領印を押した書類の束を置いた。 「ありがとうございます」 声を出した瞬間、自分の声がずいぶん遠くから聞こえた。課長はすでに画面へ視線を戻しており、私の声が届いたのかどうかすら確かではない。 定時を少し過ぎた頃、ビルを出る。 地下鉄の駅へ続く階段を下りる途中で、風がぬっと頬を撫でた。湿気を多く含んだ、ぬめりのある風だ。改札を抜けてホームに立つと、線路の向こう側の壁に貼られた旅行会社のポスターが目に留まる。青い海と白い砂浜。先月までなら羨ましく思えたかもしれない色彩が、今はただ、眩しすぎて目を背けたくなるようなプラスチックの板に見えた。 部屋に帰り、部屋着に着替える。 電気をつけないまま台所に立ち、冷蔵庫を開けた。白い光が暗い部屋に細長く漏れる。ポケットから取り出したトマトを一つ、水道の水で洗った。掌に包むと、冷たさが少しだけ心地いい。そのまま皮ごと噛みつくと、酸っぱい汁が唇を濡らした。甘みはほとんど感じられなかった。 ベランダに出て、手すりに両腕を乗せる。 向かいのマンションの部屋には、いくつかの明かりが灯っていた。テレビの点滅する光、黄色い温かみのあるランプ、誰もいないように見える部屋。風が吹くたび、遠くの幹線道路を走るトラックの不連続な重低音が響く。 喉がまた乾いた。 コップに水道水を注ぎ、半分ほど飲む。胃のあたりに溜まった冷たい塊が、ゆっくりと体の輪郭を内側からなぞっていく。 九月の夜は長い。明日も同じ時間に起きて、同じ電車に乗るのだろう。 手すりから顔を上げると、雲の切れ間に一つだけ、色の薄い星が光っていた。光っているというよりは、そこに小さな穴が開いているようだった。私は残った水を、ごぐりと飲み干した。 ...

【1000文字小説】八月の冒険

八月三十一日の夜、少年は読書感想文を書いていた。 机の上には、読み終えた本と原稿用紙がある。原稿用紙には題名だけが書かれていた。 『八月の冒険』 本当は、もっと早く書くつもりだった。 本を読み終えたのは二週間前だった。面白かったし、主人公が最後に知らない町へ行ってしまうところも覚えている。それなのに、感想を書こうとすると、どの場面について書けばいいのか分からなくなった。 少年は本をもう一度開いた。 主人公が家を出るところまで戻る。 少年はそのページを読み返した。 主人公は、家族に何も言わずに出ていく。玄関を出て、振り返らない。そのあと、知らない土地で暮らし始める。 最初に読んだときは、格好いいと思った。 今読むと、少し変だった。 家を出る理由が、よく分からない。 少年は本を閉じた。 原稿用紙に、 「主人公は勇気があると思いました」 と書いた。 すぐに消した。 それでは先生が言っていた「自分の考え」が足りない気がした。 少し考えてから、 「主人公は、帰る場所があるのに帰りませんでした」 と書いた。 これは消さなかった。 ただ、その続きをどうすればいいのか分からない。 少年は椅子から離れ、冷蔵庫から麦茶を取ってきた。 スマートフォンには、友だちのグループからいくつか通知が来ていた。 明日の持ち物の話だった。 誰かが「宿題終わった?」と書いている。 少年は画面を見たまま、返信しなかった。 宿題が終わっていないことを知られるのが嫌だったわけではない。 明日から学校だと思った。 それだけだった。 夏休みのあいだ、朝起きる時間は決まっていなかった。昼近くまで寝た日もあったし、夕方から友だちと遊んだ日もあった。 明日からは違う。 朝起きて、学校へ行って、授業を受けて、帰ってくる。 少年はそのことについて考えるのをやめた。 机に戻る。 原稿用紙を見る。 「主人公は、帰る場所があるのに帰りませんでした。」 その一文だけが残っている。 少年は本を開いた。 主人公が家を出る場面を、もう一度読む。 今度は、主人公が振り返らなかったことより、その前に靴ひもを結び直していることが気になった。 少年はページを指で押さえた。 靴ひもを結び直して、それから出ていく。 なぜそんなことをしたのか、本には書かれていない。 少年は少し考えた。 書かれていないなら、感想文に書いてもいいのかもしれない。 原稿用...

【1000文字小説】一枚だけ

  八月も半分を過ぎたのに、健太の机には宿題がそのまま残っていた。  算数のプリント。読書感想文。自由研究。  健太は算数のプリントを一枚だけ終わらせた。二枚目に取りかかる前に、冷蔵庫へ麦茶を取りに行った。  戻ってくると、一枚目がない。  机の下にも、椅子の下にもない。  布団をめくると、そこにあった。  どうしてこんなところにあるのか、健太には分からなかった。  母に聞こうとして、やめた。  台所から包丁の音が聞こえていた。  夕方、健太は読書感想文の原稿用紙を持ってベランダへ出た。  向かいの家の屋根がオレンジ色になっていた。蝉がまだ鳴いている。  本は読んでいない。  それでも一行目に題名を書いた。  次に自分の名前を書いた。  名前を書いたところで、手が止まった。  消しゴムをかけると、紙に白い跡が残った。  夕飯のあと、母が言った。 「宿題、やった?」  健太は少し迷ってから、うなずいた。  母は健太の顔を見た。 「そう」  それだけ言って、台所へ戻った。  夜、布団に入る。  机の上には、まだ宿題が残っている。  健太は、明日やればいいと思った。  電気を消して目を閉じる。  しばらくすると、机のほうから紙をめくる音がした。  一枚。  また一枚。  健太は目を開けなかった。  朝になれば、少し減っているかもしれない。  そう思いながら、健太は眠った。 リンク

【1000文字小説】八月も

八月の昼間、家には夫がいる。 長男が大学へ出て、次男が就職で家を出てから、夫と二人暮らしになった。 最初の頃は、冷蔵庫の食材がなかなか減らなかった。 牛乳を二本買う。 卵を十個入りにする。 帰宅してから気づいて、少し笑った。 今では、それもなくなった。 夫は定年してから、朝起きる時間が少しずつ遅くなった。 長い間働いたのだから、と最初は思っていた。 昼近くまで寝ていても、ソファで新聞を読んでいても、何も言わなかった。 夫の姿が、家の中の一部のように見える日が増えた。 時々冷蔵庫を開ける。 庭の植木に水をやったりする。 それ以外の時間は、ほとんど同じ場所にいる。 ある日、買い物から帰ると、夫が掃除機をかけていた。 「どうしたの」 夫は少し考えてから言った。 「床が汚れてたから」 夫は掃除機をかけながら、ゆっくり部屋を回っていた。 その姿を見て、子どもたちがまだ家の中を走り回っていた頃のことを思い出した。 夜、夫はいつものようにテレビの前で眠っていた。 私は台所で麦茶を作った。 食器棚を開けると、奥に昔使っていたマグカップが見えた。 子どもたちが家にいた頃、よく使っていたものだった。 取り出そうとして、やめた。 別に理由はなかった。 翌朝、夫は珍しく早く起きた。 「暑いな」 それだけ言って、窓を開けた。 蝉の声が部屋に入ってきた。 夫はしばらく外を見ていた。 何か考えているようにも見えたし、何も考えていないようにも見えた。 私は朝食の皿を並べた。 二人分。 向かい側に座った夫は、新聞を開いた。 紙の擦れる音がした。 その音を聞きながら、私は湯気の消えていく味噌汁を見ていた。 窓の外では、蝉が同じ場所で鳴き続けていた。 リンク

【1000文字小説】くらげ

八月の朝は、窓を開けるだけで部屋の温度がひとつ上がる。 休みを取って、息子と水族館へ行く約束をしていた。 前の晩、息子は図鑑を開きながら「クラゲって眠るの」と聞いた。私は曖昧に頷き、「明日、飼育員さんに聞いてみよう」と答えた。玄関には、小さな帽子と水筒が並べてあった。 妻はパートの日で、私と息子だけで出かける予定だった。 会社から電話が入った。 受話器を置いたときには、もう決まっていた。 「悪い。仕事になった」 息子は少し黙り、それから「ふうん」と言った。 その声は、いつもの朝と同じだった。 仕事は夕方には終わった。 駅前でイルカのぬいぐるみを見つけた。水族館で売っていそうなものだった。袋に入れてもらいながら、息子なら喜ぶと思って買った。 帰宅すると、息子は居間で宿題をしていた。 「これ、おみやげ」 袋を渡すと、中を覗いて「ありがとう」と言い、テーブルの端へそっと置いた。 妻は食器を洗いながら、何も言わなかった。 夕食のあと、庭で水の音がした。 窓から見ると、息子がホースで小さな水たまりを作っていた。 そこへ落ち葉を一枚浮かべ、しゃがみ込んで眺めている。 私も外へ出た。 「何してるんだ」 息子は葉っぱから目を離さないまま言った。 「クラゲ」 水は少しずつ土へ吸い込まれ、葉っぱは端に寄って止まった。 息子は指でそっと押して、もう一度だけ水の真ん中へ戻した。 私は何も言えず、その様子を見ていた。 西日が傾き、庭の水たまりはすぐに小さくなっていった。 リンク

【1000文字小説】夕食まで

  パートを終えて店を出ると、外の光は少し傾いていた。  六時間ほど冷房の効いた店内にいたせいか、外の空気が肌にまとわりついた。首の後ろに汗が浮かび、制服の袖口が少し重く感じられた。自転車置き場まで歩きながら、私は今日何度「ポイントカードはございますか」と言ったのか考えた。  帰り道の角にある公園では、子どもたちが遊んでいた。水筒がベンチの下に置かれ、砂場には小さな山が残っていた。  家に着くと、玄関には子どもたちの靴が並んでいた。小さいほうの靴が、斜めになっていた。  私は買い物袋を台所に置き、冷蔵庫を開けた。トマト、牛乳、卵。昼間、何度も見た商品だった。トマトを野菜室に入れ、牛乳を奥へ押した。  夕飯の支度を始める。包丁の音。鍋の湯気。洗面所から聞こえる子どもたちの声。夫からは昼過ぎに「少し遅くなる」と連絡が来ていた。  子どもたちがお腹を空かせていたので、先に食べることにした。三人でテーブルにつき、手を合わせる。そのとき、玄関の鍵が回る音がした。子どもたちが顔を上げた。  「ただいま」  夫の声がした。  私は箸を置いて立ち上がった。夫は仕事の鞄を置き、ネクタイをゆるめながら笑った。  「先に食べててよかったのに」  夫が着替えている間に、私は炊飯器からご飯をよそい、味噌汁の鍋を弱火にかけた。湯気が立った。  夫が食べ始めると、子どもたちは学校であったことを話し始めた。  窓の外には、夏の夕方の明るさが残っていた。  食器を洗い終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。  茶碗を伏せ、水を止める。居間では、夫と子どもたちの笑い声が重なっていた。エプロンを外すと、背中に残っていた熱がようやく抜けていった。 リンク

【1000文字小説】脱線

  参考書を開いてから三十分ほど経つのに、問題集の端に小さな丸をひとつ書いただけだった。  窓は開いている。カーテンがときどきふくらみ、そのたびに机の上のプリントが少しずつずれていく。どこかで風鈴が鳴った。誰の家のものなのか、毎年わからないままだ。  英単語を覚えようとする。  *accept*。  受け入れる。  その言葉を見た途端、外国の空港でスーツケースだけが流れ続ける映像を思い浮かべた。自分はなぜか空港職員になっていて、流れてくる荷物に一つずつ名前をつけている。赤い鞄は「暑い日」、黒い鞄は「月曜日」。そこまで考えて、小さく笑ってしまう。  参考書に視線を戻す。  *receive*。  受け取る。  今度は、郵便受けいっぱいに海が届く。蓋を開けた瞬間、青い水だけが静かにあふれて、玄関で熱帯魚が泳ぎ始める。靴はどうするんだろう、と真面目に考えたところで、自分がまた勉強していないことに気づく。  母が廊下を歩く音がした。 「休憩したら」  扉の向こうから、それだけ聞こえた。 「うん」  返事はしたけれど、席は立たなかった。  机の木目を眺めていると、小さな川のようにも見える。もしこの上で紙の船を流したら、消しゴムのかすは白い島になるだろうか。島には猫がいる。そんなことを考えている自分に、少しあきれる。でも、そのあきれ方は嫌いではない。  問題集を一ページだけ進める。  解答欄に丸を書く。  次の問題を読む。  途中で、蝉が一斉に鳴き始めた。  文字が少しだけ揺れた気がして顔を上げると、庭のアサガオが支柱に巻きつきながら、昨日よりほんの少し高いところで咲いていた。  どこまで伸びるつもりなんだろう。  鉛筆を回しながら、すぐに別のことを考え始める。 リンク

【1000文字小説】光の戻り方

 梅雨が明けた、と朝のニュースが伝えていた。 平年より五日遅い梅雨明けです――。 音だけ聞き流しながら、千紘は洗面台の前で髪を結んでいた。 昨日までと何が違うのか、正直よく分からない。 空気は相変わらず湿っているし、シャツは少し歩くだけで背中に張りつく。 ただ、窓から入る光が妙に強かった。 通勤電車はいつもより少し明るく見えた。 窓の外のビルは、昨日より一つ奥まで見えている。 会社へ着くと、冷房の匂いがした。 乾いた風と、コピー用紙と、誰かのアイスコーヒーの匂い。 始業前のオフィスでは、何人かがすでに仕事を始めている。 キーボードの音が規則的に続いていた。 「暑いですね」 隣の席の後輩が言う。 「急に夏って感じです」 千紘は曖昧に笑った。 毎年同じ会話をしている気がする。 でも、その“毎年”の中に、自分があと何回いるのかは考えないようにしていた。 昼休み、コンビニへ向かう途中で、強い日差しに目を細める。 昨日まで見えていなかった遠くのビルまで見える。 歩道橋の途中で、千紘は立ち止まった。 下の交差点では、人が絶えず流れている。 信号が変わるたび、黒い傘の代わりに日傘が開く。 そのとき、不意に風が吹く。 熱を含んだ風だった。 けれど、どこか乾いていた。 夕方、窓の外がまだ明るいことに気づく。 退勤後、駅までの道を歩く。 アスファルトには、昼間の熱がまだ残っていた。 セミの声が聞こえた気がして立ち止まるが、気のせいだった。 コンビニの前では、高校生たちがアイスを食べている。 笑い声がやけに遠くまで響く。 千紘はそれを聞きながら、自分がもう夏休みを待つ側ではないことを思い出した。 昔は、夏には何かが起こる気がしていた。 海へ行くとか、旅行とか、恋愛とか、そういうことではなく。 季節が変わるだけで、自分まで変われる気がしていた。 けれど今は、夏になっても、次の日の予定を考えるだけだった。 仕事が終われば、明日の資料を確認して、また電車に乗る。 マンションへ着くころには、空が薄い群青色になっていた。 部屋に入れた熱気が、ゆっくり外へ逃げていく。 千紘は窓を閉めず、そのまま麦茶を飲んだ。風鈴の音が、部屋の奥まで届いてきた。 リンク

【1000文字小説】時々晴れ

 梅雨に入ると、自動ドアの音が少し鈍く聞こえる。 雨をまとった客が一人ずつ入ってきて、床に細い足跡を残していく。私はレジを打ちながら、モップを掛けるタイミングを考えている。 昼過ぎになると、決まってやって来る女子高生がいた。 おにぎりを一つと紙パックの紅茶。それだけを買う。会計が終わると、小さく会釈をして出ていく。 それでも毎日同じ時刻に現れる人は、いつの間にか私の中で時間の目印になっていた。 ある日、制服の肩まで濡らして店へ入ってきた。前髪から雫が落ちていた。私はレジ袋を渡しながら、思わず口を開いた。 「雨、強いですね」 彼女は少し笑った。 「すぐやむので」 その日は、閉店まで降り続いた。 翌日も彼女は来た。 その翌日も。 そして、来なくなった。 毎日見ていたはずなのに、思い出そうとすると顔がぼやける。笑ったとき、少しだけ目を細めたことだけ覚えている。 昼過ぎになると、会計の途中でも入口のほうへ目が向くようになった。自動ドアが開く音に、前より敏感になった。 休みの日、近所の公園まで歩いた。 屋根のあるベンチから雨を眺める。芝生を鳩がゆっくり歩いている。 帰り道、知らないコンビニへ寄る。 冷たい缶コーヒーを一本買う。 「ありがとうございました」 若い店員の声がする。 私は小さく会釈をして店を出た。 雨は少し弱くなっていた。 アパートへ戻ると、向かいの部屋の窓が少しだけ開いていた。カーテンが静かに揺れている。 私はしばらく窓を開けたまま、湿った風を部屋に入れた。 翌日も雨だった。 昼が過ぎた。 レジの前には別の客が立ち、別の硬貨が音を立てる。 私は会計を終え、「ありがとうございました」と言って顔を上げる。 開いた自動ドアから湿った風が入る。 雨音が聞こえなかった。 「いらっしゃいませ」 リンク

【1000文字小説】三時

  朝から雨だった。  定年退職して三か月になる。曜日はまだ分かるけれど、急いで確かめる必要がなくなった。今朝は布団の中で、しばらく雨の音を聞いていた。  妻は朝食を済ませると、いつものように傘を差して出かけていった。 「夕方には帰るね」  玄関の戸が閉まる音は、雨の日のほうがやわらかい。  私は食器を流しへ運び、そのまま窓際の椅子へ座った。  庭のアジサイは雨を受けるたび、色が濃くなるように見える。見えているだけなのか、本当に濃くなっているのかは分からない。  湯のみの茶はもう冷めていた。  新聞は最後まで読んだはずなのに、何が書いてあったのか思い出せない。もう一度めくる。天気予報だけが、さっきより信頼できる気がした。  昼になる。  冷蔵庫にあった昨夜のカレーを温める。電子レンジが止まるまでの一分半が、昔より長い。  食べ終わっても、洗い物をする気になれず、そのまま流しに置いた。  居間へ戻ると、妻が脱ぎっぱなしにしていた薄い灰色のカーディガンが椅子に掛かっていた。  手に取る。  少し湿ったような匂いがする。  雨の匂いのようでもあり、そうでないようでもあった。  畳んでやろうと思ったが、結局そのまま椅子へ戻した。  置いてあったほうが、帰ってきたときに探さないですむかもしれない。  そう考えたのは親切からなのか、それとも動かしたくなかっただけなのか、自分でもよく分からない。  午後になると雨脚が強くなった。  軒先から落ちる雨粒を見ているうちに、小学生のころ、雨どいの下へバケツを置いて水をためていたことを思い出した。何に使うでもない。ただ満ちていくのが面白かった。  あのバケツは、いっぱいになったあと、どうしたのだったか。  そこが思い出せない。  時計を見る。  まだ三時だった。  今日は針が進むのを忘れているのではないか、と少し疑う。  そんなことはないと知っていても、しばらく秒針を眺めていた。  夕方近く、玄関の鍵が回る音がした。 「ただいま」 「おかえり」  妻は濡れた傘を閉じながら、「よく降るね」と笑った。  私はうなずいて、窓の外を見る。 リンク

【1000文字小説】雨粒の重さ

 六月の雨は、音もなく窓ガラスを濡らしていた。 午後三時。薄暗い六畳のワンルームで、美穂は台所の水道からぽつり、ぽつりと落ちる水滴を眺めていた。パッキンが傷んでいるのだろう。管理会社に電話をかけようとして、スマートフォンの画面を見つめたまま指を止めた。電話をかける、事情を説明する、見知らぬ業者の男をこの部屋に上げる。その一連の手続きを想像するだけで、身体の芯が重い泥に沈んでいくようだった。 彼女は今年、三十八歳になった。 一人暮らしを始めてから、もうすぐ十五年が経つ。部屋の隅にあるカラーボックスは、いつの間にか角のラミネートが剥がれ、中の茶色い木屑が覗いている。買い替えようと思いながら、もう三年が過ぎていた。 夕方になり、雨は少し激しさを増した。 美穂は傘をさして、近くのスーパーへ向かった。肌に触れる空気は生温かく、湿気でブラウスが背中に張り付く。すれ違う人々は皆、色とりどりの傘の傘に隠れて、足元だけを動かして通り過ぎていく。 スーパーの惣菜売り場には、割引シールの貼られた弁当が並んでいた。 半額になったひじきの煮物と、小さな鮭の塩焼きをカゴに入れる。レジに並んでいるとき、前にいる老婦人の後ろ姿が目に留まった。白髪を丁寧にまとめ、くたびれた買い物袋を両手で大切そうに抱えている。その細い手首に、美穂はふと、遠い未来の自分の皮膚を重ねた。 戻った部屋は、出かけたときと同じように静かだった。 買ってきた惣菜を皿に移し替えることもせず、パックのままテーブルに並べる。テレビはつけなかった。箸を動かす音が、やけに大きく部屋に響く。 窓の外では、街灯の光が雨粒に反射して、歪んだ輪郭をいくつも作っている。 美穂は立ち上がり、窓ガラスに額を押し当てた。ひんやりとした感触が、こめかみの奥にじんわりと広がっていく。 「明日も、雨かな」 誰にともなく呟いた声は、狭い部屋の空気に吸い込まれて消えた。 台所の水道から、また一つ、水滴が落ちて鈍い音を立てた。その音の間隔が、先ほどよりも少しだけ短くなったような気がした。美穂は目を閉じ、暗闇の中で、静かに降り続く雨の音だけに耳を澄ませていた。 リンク

【1000文字小説】雨の所在

雨は、朝から同じ強さで降り続いていた。 強いわけではない。弱いわけでもない。ただ「一日続く雨」として予定された通りの降り方をしている。 美奈は台所で湯を沸かしながら、窓の外を見ないようにしていた。 見ると、少しだけ気分が引っ張られるからだ。 ガラスの向こうには、白く濁った世界がある。建物の輪郭はあるのに、距離だけが失われている。二階建ての家も、電柱も、ただそこに“在る”というより、雨の中に仮に置かれているだけのように見える。 テレビはつけっぱなしだった。 天気予報士が、昨日と同じ声で「本日も降水確率は高い」と言う。 その言い方が、もう予報ではなく確認のようだった。 美奈は紅茶のティーバッグをカップに落とし、ゆっくりと色が広がるのを見ていた。 雨の日は、時間が少し遅くなる。 そう思っていたのは昔のことで、今はむしろ、時間が「均される」と感じる。どの瞬間も同じ厚みになって、区別がつかなくなる。 朝と昼と夜が、同じ灰色の層として積もっていく。 ソファに座ると、布の沈み方がいつもより深い。 身体が少し重い。 風邪というほどではない。ただ、雨の日特有のだるさだと自分に言い聞かせる。 窓の外では、向かいのマンションの人影が見える。 洗濯物は当然干されていない。 どの家も同じだ。 雨は生活を止めないが、少しずつ選択肢を減らしていく。 「今日はやめておこう」 そう言えることが増える日ほど、街は静かになる。 午後、スーパーに行くべきかどうか迷ったが、結局やめた。 冷蔵庫にはまだ食べられるものがある。 「まだ大丈夫」という判断は、いつも雨の日に強くなる。 美奈は冷蔵庫を開け、卵と野菜を確認する。 問題はない。 問題はない、という状態が、少しだけ不安だった。 夕方になっても雨は変わらない。 テレビは相変わらず同じような話をしている。どこかで川が増水し、どこかで電車が遅れ、どこかで傘が足りなくなっている。 しかしそれらは全部「どこか」の話で、ここではない。 ここでは、ただ同じ雨が続いている。 美奈は机に座り、何もしていない時間を過ごす。 何かをしようとすると、雨の音が少しだけ強くなる気がするからだ。 夜になる。 外の暗さは、雨の白さに負けている。 照明をつけると、部屋の中だけが現実の形を取り戻す。 それでも窓を見ると、外側がまだそこにある。 境界はあるのに、分離していない。 夜が深くなるに...